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本当の自分を探し求めて ~佛通僧堂修行記~

素朴な疑問と仏様

「人間は何のために生きているんだろう?」

これは誰もが一度は思ったことのある疑問かもしれません。私も若い頃からとても不思議に思っておりました。
「若い頃からこの疑問に真剣に取り組み、そして思い悩む日々を過ごした」なんてことは無いのですが、学校で、会社で、近所でまわりを見渡してみても、皆必ずそれぞれに悩みや苦しみを抱えて生きております。

「あの人は何もかも順調で幸せなんだろうなあ」と皆が思うような人でも、「ええっ! あの人があんな大変な問題を背負っていたのか」なんてことはよくあります。

「何の問題もない平穏で幸せな家族」や「挫折や失敗、何のハンディも背負ってない人」なんてどこを探してもいるものではありません。

仏教でも「生」、「老」、「病」、「死」、の基本的な四つの苦に「愛別離苦(あいべつりく)=愛する人と別れること」、「怨憎会苦(おんぞうえく)=憎い人と出会うこと」、「求不得苦(ぐふとっく)=欲しいものが得られないこと」、「五陰盛苦(ごうんじょうく)=人間の五感から生じる苦のこと」の四つを加えて「四苦八苦(しくはっく)」と呼んでおります。そして一切皆苦(いっさいかいく)といって、この世は苦であることを一つの真理としております。

それでは「人間は何のために苦労して生きているのか?」、「何故人間は存在しているのか」、「どう生きるべきなのか」

『朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり』とはこういうことなのでしょうか。「不思議だ。追求してみたい」と思いつつも、取り敢えず目の前のはかなき幸せ求めて日々生活しておりました。

インドの経典によりますとお釈迦様も、「人間はなんで苦しんで生きているんだろう」、「なんで死や病気、老いがあるんだろう」と深く深く思い悩まれたそうです。

お釈迦様の場合は、真剣に真正面からこの問題に取り組まれたそうです。妻や子供を置いて出家し、六年間想像を絶する苦行をされました。そしてついに、菩提樹の下で悟りを開かれこの問題の結論を得られたのです。

その悟られた内容というのは、四聖諦八正道(ししょうたいはっしょうどう)と言われております。すごく簡単にまとめると、「人生は苦が多いがこれは欲望や執着から来るものである。真理を理解し、煩悩を払いのけると涅槃(ねはん)という安らぎの境地を得られる。ここに至るには八つの正しい行い(正しくものごとを見る等)を実践することである」というものでした。

この真理とか涅槃とかの詳しい内容については、お釈迦様の実際の言葉が記載されていると言われている『スッタニパータ』とか、『ダンマパダ』等の原始仏教の教典に書かれています。

しかしこういう本を読んだからといって「ああなるほど、釈迦様の教えというものがよく解った。これで私も苦から開放された」というものではありません。

やはり深く理解して自分のものとするには、厳しい修行というものにどっぷりと身をつけてみなくてはならないようです。
考えてみれば本を読んだり、偉い人の話を聞いて簡単に悟れるのであれば、全国の僧堂などで日夜厳しい修行を命がけでする人たちに「わしらこんなこと、はなからせんわい!」と言われてしまいます。

僧堂での修行というものについては昔から本で読んだり、テレビで放映されたものをビデオに録って繰り返し見たりして、すごく興味はあったのですが、自分とは全く縁の無い世界と思っておりました。

ただお寺とか仏様というものについては、私の母親の実家が浄土真宗のお寺であるという影響もあるかもしれませんが、興味は人一倍強かったように思っております。 そして仏教の教え、特にお釈迦様の説かれた真理についてとても興味を持っておりました。

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かさぎの観音様との出会い

こんな私が初めて「かさぎの観音様」に、つまり高松寺へお邪魔したのは妻とお見合いをして間もない頃、昭和62年の秋でした。この時、とても不思議な気分になりました。

「あれぇ。何でここなの? どこかで昔見たような」というものでした。初めて行ったことに間違いはないのですが、いつかどこかで確かに行ったことのあるような記憶があるのです。夢で見たのか、前世で何かあったのか解りませんが、とにかくびっくりして運命的なものを感じてしまいました。 笠木山の向いに「馬乗山(うまのりさん)」という山があって、ここにも「馬乗観音(うまのりかんのん)」と呼ばれている観音様がおられるのですが、ここには独身時代に数回お参りに行ったことがありました。

ある日お参りに行くときお婆さんが山道を一人で歩いておられたので「おばあさんどこまで行かれるんですか?良かったらお送りしましょうか?」といって近くまでお送りすると、偉く丁寧に感謝され「この辺は福山市にありながら、自然に恵まれていて、人も実に素朴でいいなあ」と思ったことをよく覚えております。

そんな様子を、「かさぎの観音様」は向いの山からご覧になっておられたのでしょうか、私にはどうもそんな気がしてなりません。そして、「ちいと物足りんが、まぁ贅沢は言えんからこいつに寺をやらしてみるか」てなことになったのかもしれません。

結婚してから解ったのですが、高松寺は跡継ぎのことでいろいろと気をもんでおられたようです。私は若干の運命的なものは感じておったのですが、義父(後の師匠)から僧堂での修行の話やお経の話等を興味深く聞いておりました。

ただ禅宗の場合は寺を継ぐには修行をしなくてはならず、そのためには会社を辞めなくてはなりません。そして会社を辞めたとしても、また別の仕事を見つけなくてはならない等の問題がありました。妻子があればやはりいろんなしがらみが出てきて、お釈迦様の様にそれらを振り捨てて出家する訳にはいかず下世話な問題も解決しなければなりません。

ただどういうものか、「私がこういうことに興味があるらしい」、「どうも三女の旦那が寺をするかも知れない」ということが檀家の皆さんのあいだで漏れ伝わったようです。私が寺にお邪魔していると「いつ得度なさるんですか?」などと言われる人もおられて、「これはいよいよ後に引けないことになったぞ」と思っておりました。


高松寺庭 雲水衣

自分はいかに生きるべきか

「人間どう生きるべきか」と、当時私なりに考えて出した結論は、「天から与えられた自分の能力やこれまでの経験に、更に努力して磨きをかけて人のために役立つ」というものでした。「人のお役に立ち喜ばれることで、自分自身も高められる。それが生きる意味ではないか」と思い至りました。そしてそれは私にとっては、

① 修行を積んで自分を磨き、多くの悩んでいる人たちに何かの勇気付けを与えたい。特にお釈迦様の教えを学んで、人々に心の安らぎを与えられる存在になる。

② これまで20年間の仕事で培ってきたノウハウをコンサルティングという仕事を通じて、特にこういったノウハウの少ない中小企業者のお役に立ち喜ばれる。

ということではないかと思った次第です。 ただし、それには何かきっかけみたいなものが必要になります。いろいろ調べた結果、「中小企業診断士」という資格を知り、挑戦してみることにしました。

私はすぐに楽な方へ流される傾向があるので、自分で「受験憲章」と題したものを作成して、この資格取得の目的や意義、そして日常の心構えをいつも確認出来るようにしておきました。

こうして先ず通信講座を申し込んだのですが、「どーも書いてることがよく理解出来ないぞ」と思い、「合格体験記」等をいくつか読んでみました。すると自分の想像した以上に難しい資格で、資格取得ための専門学校に通学しなければなかなか合格出来ないということが解りました。

そこで「いったん目指したからには絶対に合格する」との固い決心のもと、ほぼ毎週の日曜日に広島市内にある診断士の受験学校に高速バスに乗って通うことにしました。

こうして平日2時間、土曜日・日曜日は5時間の勉強時間を自らに課し、延べ約2年間の勉強でやっと合格することが出来ました。宴席のあった翌日などは朝四時に起きて勉強しました。

今から思うと「よく頑張ったなあ」と我ながら感心しますが、やはり「自分の人生、このままで終わってはならん」という"想い"が心のどこかにあったのだと思います。

次に雲水としての修行を実行に移していくことになりますが、さしあたり大きな問題がありました。それは会社を退職するタイミングであります。私が辞めると言い出すと、いろいろと反響があろうと思い、そのタイミングに悩んでおりました。

そうしたところちょうど良いタイミングで、会社にて早期退職優遇制度を実行することとなったので「これぞ天の与えてくれたチャンスだ」と思いこれに応募することとなりました。

先行きについての不安も全く無いというわけではありませんでしたが、自分にやりたいことや目標があって、それに向かって行けることだけでも幸せなことではないかと思いました。

こうして平成12年6月に約20年間勤めた会社を退職致しました。気持ち悪いほど話がトントン拍子で進みましたが何事もプラス思考に考えて、前向きに対処してきた結果だと思っております。それともう一つ、やはりどこかで「仏様に見守られているのだ」と感じております。

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得度、修行のスケジュール決定

退職を決意してから僧堂での修行の実体等を調べてみた結果、

① 一旦僧堂に入ったからには、最低一年間はみっちりと僧堂へこもりっきりで修行しないと 「修行した」ということにはならないこと、つまり住職となる資格も貰えないこと

② 想像以上に「しきたりの厳しい世界」であり、また典型的な縦社会であり年齢に関係なく一日でも早く入ったものに絶対服従となる。このため、僧堂によってはいじめに近い実体があることが解りました。

①の「一年間はこもりきり」という点については私としても二人の子供(小学校五年男、小学校二年女)のことや、診断士として一年間世間から遠ざかることの影響などすごく気になることもあります。

しかしこうした不安よりも、「お釈迦様の教えを会得したい」という気持ちもまたこれに負けないくらい強いものでした。

そうするうち得度式が九月三日、修行へ行くのが九月十三日と決定しました。後から思えば非常に慌ただしい無謀とも思えるスケジュールでしたが、当時は「何とかなるさ」という軽い気持ちでした。が実際にはこの強行スケジュールが、後で多々苦労する原因にもなりました。

修行する僧堂は広島県三原市高坂町にある臨済宗佛通寺派総本山佛通寺の「佛通僧堂(ぶっつうそうどう)」です。

スケジュールが決まった後私がふと「しもうた!もう少し遅らせればよかった。シドニーオリンピックが見られんことになる。今回はじっくり見れるのに」と妻の前で漏らしたら、「アホ!そういう問題じゃない!」と言われてしまいました。

俗世間とは全く違う世界

先ず驚いたのは修行へ行く際の服装です。臨済宗の修行道場ではどこもそうなのですが、網代笠(あじろがさ)に草鞋(わらじ)、紺木綿の衣、白脚絆、首に頭蛇袋(ずだぶくろ)と袈裟文庫(けさぶんこ:内に袈裟や経本等が入っている)、背中に風呂敷包(雨合羽や白衣が入っている)等とまるで百年以上も時代がさかのぼった格好で参上することとなります。

途中で会った人は、時代劇の撮影でもしているのかと勘違いするかもしれません。警察に遭ったら「不審人物」と思われて職務質問を受けるかも知れません。「このときは逃げようか。いや逃げたら余計に怪しまれるかも」とついつい要らぬ心配までしてしまいます。


庭詰の服装にて

また僧堂内では、粥座(しゅくざ:朝食)、斉座(さいざ:昼食)、薬石(やくせき:夕食)や開静(かいじょう:起床)、解定(かいちん:就寝)、茶礼(されい:お茶)、典座(てんぞ:台所)、東司(とうす:便所)等生活の全てが僧堂独自の言葉であり、しかもそれが全て鐘や拍子木等の撃ち方で合図を聞き分けないといけないそうです。

そして少しでもトロトロするとすぐに警策(けいさく)という棒で「ぶち殴られる」そうです。(かなわんの~)

入ってすぐは「新到」と呼ばれ、早く覚えさせるために特に厳しく鍛え、場合によってはボコボコにやられることもあるそうです。(嫌じゃの~)

実際に、あまりの暴力のひどさに耐えきれず一~二ヶ月で逃げ出した例を二~三聞きました。(怖いの~)

因みに開静を聞くと「冬は四時半、夏は三時半ぐらいじゃろう」と言われました。もちろん午前のようです。(これもかなわんの~)

その他にもいろいろと「かなわんの~」と思わず言葉が出ることが多々あるのですが、その中から「入門までのしきたり」について説明してみたいと思います。

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「庭詰(にわづめ)」と「旦過詰(たんがづめ)」

テレビでご覧になった方もいらっしゃると思いますが、禅寺へ入門させてもらうためには、先ほど説明した旅姿にて玄関の式台へ頭をこすりつけて低頭致します。そして低頭したままの姿勢で「たの~みましょ~」と大声で叫ぶところから始まります。

そうすると奥から「ど~れ~」と言いながら人が出てきますのでその人に、住所・姓名を告げて願書・履歴書・誓約書を入れた封筒を差し出し入門希望を申し出ます。すると決まり文句で「あいにく当道場はただ今満衆につき・・…早々にお引き取り下さい」と言って冷たく断られます。

それでも「お願いします」といって頭をこすりつけたままの姿勢で座り続けることになります。これは一種の儀式であり「決められたこと」なのですが、これを何と2~3日間も続けなければ玄関からも上げてもらえないそうです。ごそごそ動いたりすると更に日数は延長させられるそうです。

さらにこの間も襟首を捕まえられて「目障りだ! どけ!」とか「トットと出てゆけ!」とか散々罵声を浴びせられるそうです。これを「庭詰(にわづめ)」と言いますが、これで当人の意志の固さを確かめるのだそうです。

「こんなしょーもない芝居せんでも意志は固いからすぐ上げてくれ」と言いたいところですが、それを言ってしまうとボコボコにされた上に、2日間のところが五日間ぐらいに延長されそうなので言えません。

仏通寺

こうしてやっと「庭詰」が終わると今度は「旦過詰(たんがづめ)といって、別室の空き部屋に閉じ込められて2日ほど坐禅をさせられます。義父に聞くと「わしらの時には、ここへ来たやつを皆で担いで庭へ放り出したもんじゃ」と言って笑っておりました。

まさに「いじめ」の世界です。私はあまりにもひどいことをされた場合には市の教育委員会を通じて…などと言っている場合ではないので、ただひたすら耐えるしかありません。それともいっそ開き直って「今のは気持ちよかったから今度は胴上げで庭まで運んでくれ」とお願いしてみるかです。でも最後のところで思い切り落とされそうな気がします。

そういえば高校時代に気の弱い同級生を10人位で胴上げして、下に落として遊んだのを思い出しました。私も中心的に参加していたので正にこの度「因果応報」となるかもしれません。

それはともあれ、こうした苦労を経てやっと入門することが許されるのです。

期待と不安を胸に

私の修行の目的は自分自身の安心や救いのためというよりも、自分がいかに成長して人々に安心ややすらぎを与えられる存在になれるかであります。

このためには真理を把握し、これを日常生活に生かしていくことが必要となります。

お釈迦様の教えや仏教の精神は知識としては本を通じて学ぶことも出来るでしょうが、これを体にしみ込ませて日々生かしていくにはやはり僧堂での修行が必要だと思います。

この修行で私がどの程度のものを得られるか解りませんが、少なくとも自分でも「少しは変わった」と思えるくらいにはなりたいものです。

ただ実際に掛搭(かとう=入門)する日が近づいてくると、「自分は血圧が高いが冬は大丈夫だろうか」とか「持病の痛風発作が出たらどうしよう」、「眠気に耐えられるか、体力はあるのか」、「診断士の更新研修はどうなるのか」、「1年後に仕事はあるのか」とか現実的かつ具体的な不安もチラホラする様になりました。

中学時代の同級生に今回の話をしたら、「岡本ちゃん、わしはあんたの性格をよう知っとる。そりゃようもって3ヶ月で~」と言いながらも大勢で"壮行会"を開いてくれることとなりました。

どうしても皆のスケジュールが合わないということで2回に分けてやってくれることになりました。本当にありがたいことだと感謝しております。彼らはきっと成仏することと思っております。

また診断士の先生がたからは、出来れば僧堂での様子を書いて毎月会報に掲載してみて下さいと言われました。これはいいと思い義父に「パソコンは持って行けるのか?」と聞くと、「そんなイチびったもん持っていったら、ブチ回されるど!」と言われました。
雲水には「安単(あんたん)」と呼ばれる僧堂内の畳一枚分のスペースしか与えられません。持物も極度に制限されている様です。

先生がたには「極力ご期待に添えるようにチャレンジしてみます」とお答えしておきました。

そして、もしも便りの無い場合は、
① 書く余裕がない、または書こうとしてブチ回された
② 途中で挫折してしまい、ひっそりと暮らしている(この場合はそっとしておいてやって下さい)
③ 死んだ(この場合は軽く手を合わせてやって下さい)、
のうちのどれかだと思って下さい、と言っておきました。
色々な不安もありますが、元来出家するということは何もかも捨てて俗世間から離れる(つまり世俗的な心配事からも離れる)ということであります。「仏の道」を求めに行くのに「仏様」が邪魔立てする道理はありません。多少の困難はあっても、それは次に大きく飛躍するための試練なのです。

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両親のいない得度式

平成12年9月3日(日曜日)午後1時30分、妻の実家である「高松寺(こうしょうじ)」にて私は得度式を挙げました。得度式にて公表される安名(あんみょう=僧侶の名前)は、大観(だいかん)と決まりました。

得度式の出席者は同じ教区の臨済宗佛通寺派の和尚様がたが5名、高松寺の檀家総代さんが数名、寺族の方が数名の合計20名弱でしたが、この中に私の両親はいませんでした。

私の出家について両親は最後まで大反対だったからです。両親にとっては一人息子の私を取られる様な気がしたのでしょうし、順調だったサラリーマン生活を捨てて、何故苦労する事が目に見えている世界へわざわざ飛込むのかということだろうと思います。両親の気持ちも十分すぎるほど解りますが、しかし私にとっては長年に亘る人生計画の一環ですし、自分の人生ですから好きにさせてもらうことと致しました。

しかし心のなかに「親不孝してしまったな」という気持ちは今でも残っております。

写真
得度式当日の私

私とすれば子供と会えないのがとてもつらいところです。一週間ほど出張などで家を空けるときでも「元気でいるだろうか?」と寂しい思いをするのにと思っております。また家に残される妻の方は私の修行以上につらいこともあるでしょうが、何も言わずせっせと修行の準備を手伝ってくれました。口には出しては言いませんが、本当に頭の下がる思いです。

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高松寺について

ここで私が帰る予定である「高松寺」について少しふれてみたいと思います。寺の開創(開創当初は天台宗)は承久2年(1220年)、臨済宗への改宗は文安4年(1447年)と非常に歴史の古い寺です。更に特筆すべきは、開創以来火災に遭っていないため非常に貴重な品々が数多く残されているということです。 3年前に開創777年、改宗後550年を記念して『笠木山高松寺誌』を出版致しましたが、その際に調査をされた県立博物館学芸員の方(偶然にも私の小学校時代の同級生だったのでこれまた驚きました)も貴重な品々の多さにびっくりしておりました。

場所は広島県福山市の外れにある笠木山という山の頂上付近に位置しております。かなり過疎化が進んでいて小学校も複合学級だそうです。寺の隣家は何キロメートルも離れており、毎年除夜の鐘をつくのですが、狐やタヌキしか聞いていないようです。こういう状況ですから檀家は減少傾向にあり、現在は40件程度となっております。

ただ自然環境だけは素晴しくとても心落ち着くところです。また笠木山の水はとても美味しく「観音水」とも呼ばれ地元では結構有名らしく、昔は亡くなられる前に「笠木の水を飲んで・・・・」という人もおられたそうです。

私は修行中に「ごま豆腐」の作り方を覚えましたが、味の決め手は水であります。この「観音水」で作ると素晴らしいごま豆腐が出来上がりました。自画自賛ですが、味も「ありがたさ」も最高です。

また笠木の観音様はとてもご威光の高い観音様として数々の言い伝えも残されております。お近くの方は是非お立ち寄りください。

臨済宗となってからは現住職が第18世であり、順当にゆけば私が第19世ということになります。(※修行記執筆当時)まさに歴史の重みを感じます。 高松寺の歴史の中で、私が一番興味を持ったのが第12世の廣天恵澤(こうてんえたく)という和尚です。高松寺誌(平成九年発行)には詳しくは記載されていないのですが、この和尚は安永6年(1777年)に当時の重玄寺(岡山県後月郡芳井町にある同じ臨済宗佛通寺派のお寺)の和尚の首をはね、その後すぐに高松寺へ戻って割腹自殺したそうです。

境内に廣天和尚の宝篋印搭(ほうきょういんとう)が建立されておりますが、これは和尚としてかなりの功績を残したなど、滅多なことでは建てて貰えないものだそうです。ということは何かよほどの事情があったものと思われますが、廣天和尚が当時32歳であったことと、大阪の人であったということ以外には今のところ何も解っておらず事件は歴史の謎となっております。ちなみに重玄寺にもこういう事件があったということは記録に残っているそうです。

いよいよ庭詰開始

 

「たの~みましょ~」 平成12年9月13日、佛通寺僧堂の玄関で私は緊張しながらも大声で叫びました。すると中から「声が小さい!もう一回やり直せぇ~」と怒鳴り声。そしてもう一度ありったけの声で「たの~みましょ~」。そうすると「ど~れ~」と中から若い雲水が出てきたので「広島県福山市加茂町北山高松寺徒弟岡本泰之でございます。当道場に掛搭致したくお取り次ぎの程よろしくお願い申しあげます」と入門の希望を告げました。

するとご紹介致しました通り出てきた雲水が「あいにく当道場はただいま満衆につき、他の道場へお回り下さい」と冷たく断られました。
ここで「おや?雲水は今3人しかいないと聞いておりますが満衆とは滑稽な…」などとは口が裂けても言えません。ぶち回されます。

 

さあこれからが大変です。体をよじらせて額をつけたままの姿勢なので30分もしないうちに腰が痛くなりだし、1時間後には体じゅうが脂汗でびっしょりになりました。「こ、これはまさに苦行だ…」覚悟していたこととはいえ、とんでもない世界に飛び込んだなと思いました。

12時になると典座(てんぞ=だいどころ)の片隅に呼ばれ食事をいただきました。一汁一菜でしたが量がとても多く、残しては失礼と思いやっとの思いで食べ切りました。「ご馳走様でした」と言ってお盆を返すと、「漬物を一切れ残して、お茶でお椀を綺麗に洗うんじゃ。あんた師匠から何も聞かずに来とるんか?」と冷たく言われました。

皆が食事の時唱えていたお経も殆ど覚えていないし、これから先が思いやられるなあと思いつつ典座を後にしました。後から解ったのですが、このとき食事を残していればそれこそ大変なことになっていました。

斉座(さいざ=昼食)が終わると直ぐにまた同じ姿勢に戻らなくてはならないので、足取り重く典座から玄関に戻りました。すると2時頃に突然、棒を持った若い雲水がすごく怖い顔をして現われ「こら~、まだこんなところでうろうろしとるんか!とっとと帰れ!」と棒で私を追い回して、荷物や笠を外へ放り投げられました。

私が呆然として玄関の外で立っていると、しばらくしてやさしい顔をした別の若い雲水がやって来て「いったん追い出されたら、10分くらい周囲を歩いてまた戻って来て下さい。大変でしょうけど頑張って下さい。これ内緒ですけど…」と言ってジュースを一本くれました。 後で聞いたのですがこれは「追い出し」といって2時間くらいすると体がきつくてたまらなくなるので、ああしてわざと追い出して休憩させる仕組みになっているのだそうです。恐らく私が何も知らずに来ていると思い気を利かせてくれたのでしょう。

次の日には棒でいきなり足元の床や壁を叩きながら、凄い形相で「まだおるんか! トットとうせろ~」と凄い形相で追い出されました。よくよく顔を見ると、昨日優しくジュースをくれた兄ちゃんではないか。 「お前は役者やの~」
こうして3日間庭詰めは続きました。3日目は祝日だったので観光客の沢山いる前で追い出されました。私が気を利かせて観光客に「どうもお騒がせしました」というと、おじさんが恐る恐る私に「あんた、何やったん…」と聞いてきました。 体力的にも精神的にもへとへとになりました。

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庭詰より辛かった旦過詰

 

4日目になると朝4時から本堂で行われる朝課に呼ばれました。50分くらいお経を読んだ後、皆立ち上がり三拝(さんぱい=チベットの五体投地のように3回拝をする)するのですが、足がしびれてなかなか立ち上がることが出来ず、1回しか拝が出来ませんでした。「こんな私を皆見てるんだろうか?」と思いふと顔を上げると、しっかりと注目されておりました。

旦過詰では朝課の時以外は部屋に入れられて、朝6時頃から夜九時まで食事とトイレ以外はずっと坐禅を続けなければなりません。食事を運んで来た雲水が「みんなあなたのやる気を見てるから。老婆心ながらトイレなどに度々行っていると旦過詰の日数をのばされるから」と冷たくアドバイスされました。

部屋の襖は全て開けられているのでさぼることは出来ません。3時くらいになると足や背中が痛くてたまらなくなりました。トイレに行こうとしても、立ち上がるのががやっとという状態になりました。

また電気をつけることが許されなくて、夜は暗い部屋で黙って坐っているのでどうしても気持ちがネガティブになりました。「妻や両親にはこれまでわがままばかりしてきて感謝一つしなかったけど、今会って一言お礼が言いたい」とか、「長男(小学5年)は大切な時期だが家にいてやれなくて、また1年間釣りやキャッチボールをしてやれなくて申し訳ないなあ」とか思いました。

特に出発する前の晩「父さん、本当に1年間会えんの?」と寂しそうな目をして、私の手を握ったまま眠った小学2年の娘のことを思うと胸が張り裂ける思いでした。私にとっては暗くて狭い部屋でのこの旦過詰が、精神的にも身体的にも最も辛いものでした。 しかし出発の前日に自分のノートへ「信念を持ち続けること。則天去私」等と書いたのを思い出して気持ちを持ち直しました。子供達には私の「生きざま」を見せれば良いのだと自分に言い聞かせました。

こうして庭詰めから約6日間で、やっと入門することが出来ました。ヒゲは伸び、6日間風呂にも入れなかったので、体は汗臭くぷんぷんしていました。

日々の生活

僧堂では名前を呼ぶとき、名前の下の字を"さん付け"して呼びます。したがって私は泰之(たいし)ですから「之っさん(しっさん)」と呼ばれます。佛通寺の僧堂では八月で老師が変わり、2~3名の雲水が僧堂を出たため雲水の数は私を入れて四名となりました。非常に上下関係が厳しい世界で、年齢に関係なく1日でも経験の長い方が上になります。

雲水の中では私が一番年齢は上なのですが(私は42歳、他は39歳、28歳、23歳)、上下関係では一番下になります。そしてこの世界では上の言ったことについては絶対服従となり、先輩が白を黒と言えば、そのまま黒となります。最初直日(じきじつ=僧堂のリーダー)さんとお話したとき、「ほお、42歳か。歳は一番上だが、ここは馬鹿に成りきってやってくれ」と言われました。なかなか的確な表現だなと感心いたしました。

新到(しんとう=雲水の新人)はシゴいて鍛えるのが僧堂の常識であり、何を言われても新到は「はい」、「いいえ」、「お願いいたします」しか言えないことになっており、特に最初は分からないことばかりなので怒鳴られてばかりです。私は怒鳴られたりするのは気にならないのですが、やはり40歳を過ぎると体力的にも辛い面が多々あります。皆さん、僧堂に入るなら若いうちがいいです。(誰も好んで行かないか?)

一日のだいたいのスケジュールをいいますと、起床は3時40分(時期によっては4時40分)です。新人の私は急いで顔を洗って山門や観音堂、僧堂、本堂、近くのお寺の扉を開けます。そして四時過ぎから本堂にて朝課。その後坐禅と独参(どくさん=禅問答)をします。6時から粥座(朝食)。七時から日天掃除と作務(さむ=諸々の仕事)。11時からの斉座(昼食)後約30分休憩をして引き続き午後の作務および晩課。薬石(夕食)後は少し休憩があって7時から10時まで坐禅をします。その後は守夜(しゅや)といって夜警をしますが、そのあと夜座といって外で坐禅をすることもあります。寝るのは夜座が無いときでだいたい11時くらいになります。

またテレビやラジオは勿論、新聞も読ませてもらえません。本もお経などごく限られた本しか読むことが出来ません。したがって下界で何が起こっているのか中にいるとさっぱり解りません。
待遇面だけを考えれば刑務所よりもずっと悪いと思いますが、良いところは「脱走」に対する監視体制が甘いのと、世間様に堂々と言えるということくらいでしょうか。

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失敗の連続

私は仏教やお釈迦様の教えについては、本の上ですがこれまである程度は勉強しておりました。しかし僧堂のしきたりや、お寺の儀式、習慣などについては全くといってよいくらい知識の無い状態で掛搭しました。

そのため当初は特に失敗が多く、しかも皆がずっこけたり唖然とする失敗がわりと多く、大変恥ずかしい思いもしました。ここで恥をしのんでその一部をご紹介させて頂きます。

提唱の際本堂で老師をはじめ皆でお経を読んでいたときのことです。そのとき私は魚鱗(ぎょりん=木魚)の担当でした。ふと後ろの方を見ると障子が開いたままになっております。普段「気がきかん」とよく言われる私は、ここでは気をきかせたつもりで、自ら中座して閉めに行きました。

そして魚鱗席に帰ってみるとみんなが鋭い視線で私の方を見ているので、「また何かやっちゃったかな?」と感じたのですが何のことかさっぱり分からす「また後で何か言われるな~」と思いつつ過ごしました。

提唱後に直日(じきじつ=雲水のトップ)さんから、「之っさん。皆何で呆れていたか分かったか?」、「いいえ良く分かりません」、「魚鱗がお経の途中で抜けたら皆のお経がバラバラになるじゃろーが~!。そのくらい考えたら解ろうが~! バカヤロー」 ああそういえば途中、合わなくなって乱れとったな~。自分のせいじゃったんか~・・・・

またこれは最初の頃のことですが、本堂にて皆で三拝した後老師が私に、「之っさんとこはイスラム教か?」、「はぁ?」、「あんたの拝はアラーの神を拝む様なカッコになっとる」。それから2~3回指摘を受けてやっと何とか形になるようになりました。 初めて葬式に出させて戴いた時も、臨済宗の葬式自体初めての経験なので終始要領が分からずにキョロキョロしているうちに終わってしまいました。そして最後には足がしびれて、大衆の前で這いながらに立ち上がり帰ることになりました。 しかし雲水は皆こうやって失敗を重ねながら一人前になっていくのだと最近では思っております。

公案(こうあん)

臨済宗では同じ禅宗でも曹洞宗と違い、修行のなかに公案(こうあん)というものを取り入れております。
これは老師が修行僧(雲水)に与える宿題で「犬に仏性があるか」とか「達磨に何故髭(ひげ)がないのか」という奇妙な問題が与えられます。

公案を与えられた雲水はそれこそ坐禅中や作務のときも一日中この公案と取り組むことになります。そして朝課、坐禅の後毎朝五時過ぎから先輩雲水から順番に鐘を鳴らして自分なりの見解(けんげ)を携えて独参場(どくさんば=独参のために老師が待たれている狭くて薄暗い部屋)へ参上いたします。
ここでの老師と雲水とのやりとりは正に真剣勝負そのものです。中には裸になったり殴ったり殴られたりといったこともあるそうです。私も順番待ちをしているときに部屋の中から凄い叫び声が聞こえてきたことがありました。また、「兄弟船」を大声で歌ったあと真面目な顔で出てきた人もおりました。(どんな公案だったんだろう?・・・)また独参場での老師とのやりとりは、外へ漏らしてはならないのが慣例となっております。
これは佛通寺で昔実際にあった話ですが、独参のとき東司(とうす=便所)からお椀に「うんこ」をすくってきて食べた人がいるそうです。その人はその後熱が出て2日ほど寝込んだそうです。

答えが思い浮かばないときは、独参場に行くのがとても辛いものです。佛通寺の旧禅堂の柱は丸くなっております。これは昔参禅を嫌がる雲水を独参場へ連れ出そうと、無理矢理引きづり回していて腕の骨が折れたことがあったので当時の老師が柱を丸くするように言われたからだそうです。

公案は本を読んだからといって答えられるようなものではなく、老師は本人が本当に理解しているかどうか直ぐに解るそうです。場合によっては独参場に来る足音だけで「こいつ解っとらん」と鈴を鳴らされることもあります。鈴を鳴らされたら「帰れ」と言う合図で、何があっても帰らなければなりません。 10月3日、私に最初に与えられた公案は"隻手音声"でした。この公案は「両手を打ち合わせれば音がする。では、片手ではどんな音がするのか私に聞かせろ」というものです。

次の日、私が自分の考えを言おうとすると老師は「それは"理屈"だ! 禅では理屈を一番嫌うんだ。それは之っさんが岡本として社会で身につけた知識である。あんた自身の隻手の声を私に聞かせてくれ」と言われました。

 

「例えば水とは水素と酸素でできていて、百度で沸騰して0度で氷になり、記号で現わせばH2Oであるというようなものである。そんな答を聞いているのではない」
私が聞きたいのは「百度になると 『ウァチチチィー』、0度になって氷になると『ウワァー!冷たい~』(凄いゼスチャー入り)という具体的な誰にでも分かる答えだ。公案になりきってよく考えてみろ!」 それからの私は「ウォ~」と叫んだり、ゼスチャー入りで「南無観世音菩薩」「衆生本来仏なり」と言ったりしました。その都度コメントやヒントを頂いて、その時は少しは分かったような気になるのですが老師を納得させることは出来ません。
修行時代 最後のやりとりはここでは言うことは出来ませんが、答えだけ聞くと「なんだ~」という感じです。何故このような公案なのかというと「隻手とは自分そのものであり"衆生は皆仏である"ということをギリギリまで追い込んで考えさせるため」なのだそうです。

最初の公案を通じて「人間の仏性」とか「なりきる」ということについて考えさせられたし、「理屈や固定観念」を捨てなければならないということも感じました。

雲水生活

雲水の修行の中心は作務と坐禅そして公案です。作務とは掃除等諸々の作業のことですが、掃除一つとっても半端ではありません。走り回って必死でやります。庭なら木の葉一つ残さぬよう、部屋であれば塵一つなくするつもりで、しかもスピーディーに全精力を注いでやります。少しでもスピードがゆるむと「こら~、さっさとやらんか~」と罵声が飛んできます。

禅の世界ではよく、「なりきる」とか「三昧」とか表現しますが、何事も我を忘れて対象物と一体になるほどに集中して取り組みます。

何事も真剣に取り組むことで集中力が高まり、いろんな工夫も生まれてきます。自分がこれまで如何に何事にも気を抜いていたかがよく分かりました。

「動中の工夫は静中の工夫に優る」と言われておりますが、これは坐禅中の思案よりも、作務のときにふと頭をよぎる「ひらめき」の方が何倍も優るという意味です。

実際に静中(坐禅中)に思い悩み動中に「ああ、これか」とひらめくことが多いものです。
そういえば大発見・大発明とか、悟りとかいうものの多くは机とか禅堂でなく、日常生活の中で生まれております。

ニュートンやアルキメデスなど大発見は不思議と研究室ではありませんし、禅の世界でも一休さんや白隠禅師も悟られたのは坐禅中ではなく、カラスの鳴き声を聞いたときや、ほうきで頭を叩かれたときであります。

また僧堂では全てに整然とした美しさが求められます。私も草履の置き方がズレているといって何回怒鳴られたことか…。禅堂の単布団も寸分も狂わないよう一直線に並べますし、生け花や線香立ても一ミリでもズレない様に揃えます。

最初は「こんなにきちんとしていたら、性格がおかしくなるんじゃないか」と思っておりましが、最近ではこれらは当たり前で整理整頓されていないのは心が乱れているからだと思うようになりました。

老師

雲水の指導は「老師」という人が行います。私は以前から老師という存在に非常に興味を持っておりました。禅宗では悟りを開いたと認められて「印可状」を貰った人を老師(または師家(しけ))と呼びます。普通ここまでになるには最低でも10年くらいは修行しなくてはならないそうです。勿論長年修行してもなれない人が殆どのようです。

佛通寺ではちょうど私が入門した時期に老師が変わりました。今度の老師は70歳と高齢ですがとてもお元気です。若い頃に大阪で商売をして大繁盛し、すごい大金を得たことがあるそうですが、何かがあって全財産を失ったそうです。

そして「人間ははたして、金以外に幸せになれる道があるのか」と思いこの世界に入られたそうです。その後十八年間ほど佛通寺で修行されて老師の資格である「印可状(いんがじょう)」を得られました。今回佛通寺へ僧堂の老師として来られる迄は、近くの小さな寺で布教師等をしつつひっそりと暮らしておられました。

通常僧堂では老師は天皇陛下の様な存在で、ずっと隠寮(いんりょう=老師の部屋)に籠もっていて、雲水は独参以外には口も聞くことも出来ません。ところが今回の老師は非常に気さくな方で、ひょこひょこと典座などに姿を現わしては雲水にもよく話しかけてこられます。

生涯独身で犬を3匹、猫を1匹飼っており我が子の様にとてもかわいがっておられます。私が老師に「大阪で大儲けしていたころと今と比べると、どちらが幸せですが?」とお聞きすると、老師は「う~ん、今の方が心はずっと安らかだなあ」と言われました。

そして「確かに大阪にいたころの方が金回りは良かったが、あのころは客をとったとかとられたとか、給料がどうとかばかりやっていた。今はこうして自然にできたものを頂いて(老師は畑で何十種類もの野菜を育てほぼ自給自足の生活です)犬達と一緒に暮らしているが、今の方が心はずっと平穏だ。之っさん。坊さんの良いとこは客を取り合ったり、営業で競争したりすることがないところだ。最近坊さんになって良かったとつくづく思うことがあるよ」とのことでした。

すごい倹約家でお金を出してものを買うことをすごく嫌います。以前に老師のお寺で1ヶ月くらい暮らしたことのある雲水に聞いた話ですが、畑にころがっていた腐りかけたタクアンを「これはまだ食える」と言って拾ってきて4日間位食べたそうです。
また賞味期限を全く気にせず、酢になった豆腐でも「昔は気にせんで食べていた」そうです。ただ3回くらい食中毒になって「滅茶苦茶苦しかった。死ぬかと思うた」そうです。老師のお寺から食物を頂くときは殆ど賞味期限が切れているので、雲水はすごく警戒します。

例えば先日ジュースを頂いたときは色が変だと思ったら、賞味期限は3年近く前のもので、どす黒くなっていました。雲水たちは「なんで早う捨てんのかな~。そんな高いもんじゃあるまいに」と言っておりました。

ただ下山する直前に気がついたのですが、これは老師の「食物の恵み」に対する感謝の気持ちなのです。天の恵みであるから、人間の都合だけで粗末には出来ないということをこうして実践で教えられているのです。

一度老師のお寺の自室に通されたことがあるのですが、蔵書の多さに驚きました。日本にこれだけ禅関係の本があったのかというくらい禅を中心としたあらゆる本が壁いっぱいに並んでいました。投資すべきところには、十分に投資されているようです。

10月2日に私は正式に老師と相見(=正式な挨拶)をさせていただきました。その時老師からは「之っさん、あんたは42歳と高齢なので体力的にもしんどいと思うし、若いものから色々と言われて抵抗もあろうと思う。私も37歳でこの世界に入って苦労したのでよく分かる。しかし終わってみるとそれだけ得るものも大きい。子供さんにも会いたかろうが、あなたが成長して帰ることを一番の土産として、首を長くして待っている家族や師匠を喜ばせて欲しい」と言われました。

こちらへ来て少々気が滅入っていた私は、そのお言葉に涙が出てしまいました。そして子供がいないのによく親の心が分かるなぁと思いました。

 

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修業出来る幸せ

11月からいよいよと坐禅の時間も長くなり、睡眠時間も少なくなりました。夜は11時半頃寝て、起床は3時半頃と四時間強の睡眠時間です。42歳の私には辛いものがあり、坐禅中によく居眠りして警策で叩かれており背中が腫れ上がって寝返りもしづらい状況です。

また、もう一つの辛いところは世間の情報から遠ざかってしまうことです。テレビ、新聞、ラジオも無く、入って当分は外に出してもらえませんから世の中がどう動いているのかさっぱり分かりません。

佛通寺に30年間勤めている居士(こじ=出家せずに修行する人)の人にお聞きしたのですが、だいたい4~5人に1人くらいの割合で修行をリタイヤする雲水が出るのだそうです。リタイヤの原因は精神的に変調を来すケースがもっとも多いそうです。私も最初は生活環境の激変になかなかついて行けず、僧堂生活そのものがつらくてつらくてたまらなかったのですが、徐々に慣れてまいりました。

辛い時には "修行出来る幸せ"を思うようにしました。1年間以上も世間から遠ざかって修行するということは、してみたいと思ってもなかなか普通では出来るものではありません。

私がここへ来る時にも何人かの人が「そりゃー滅多に出来ない良い経験ですよ。羨ましいくらいですよ岡本さん」と言ってくれました。でもそう言った後で「私は出来ませんから、後からお話だけ聞かせて下さい。楽しみにしています」とたいてい付け加えられるのですが・・・・

体重は最初の3ヶ月で11キロ減少(74キロが63キロに)しました。
ただ良かったのは、コレステロール値と中性脂肪値はこれまで高かったものが、完全に正常値に戻りました。主治医(女医さん)からも「まぁ、修行の効果は凄いのね」と感心されました。

但し下山後体重のほうは、「おつり」が付いて戻ってしまいました。
この1年少々の間は社会の情報から遠ざかり、仕事も休みとなりましたが、止まったからこそ見える世界もたくさん見ることが出来ました。

提唱・内講

僧堂では提唱(ていしょう)や内講(ないこう)といって、老師が雲水たちに一時間程度の講義をすることがあります。通常は月に一回程度ですが、接心の期間になると、毎日提唱や内講があります。

私はこの提唱や内講をとても楽しみにしておりました。僧堂を出たあとでも、時々このときにメモしたノートを読み返しております。
このなかで私が最初に印象に残ったのは、前後際断(ぜんごさいだん)という言葉です。これは「過去に執らわれず、未来を憂うことなく、自分を忘れて現在に集中する」という意味です。

人はどうしても済んでしまったことをくよくよしたり、心配しても仕方のない先のことを心配してみたりして、今現在の自分のやるべきことに集中できないことがあるものですが大切なのは「いま、ここ、自分」に集中することなのです。

私もそうなのですが、「先のことがわからない」から、ついついこの「わからない」という不安に対して何か「安心」を得ようとします。しかし「諸行無常」の世のなかで絶対的な安心を求めようとしても叶うはずがありません。

求めれば失望し、更に不安が大きくなるという悪循環に陥るだけです。
歳をとりたくない、病気になりたくない、死にたくないという思いについても同じことです。

厳しいありのままの現実を正しく受け入れたうえで(これを禅の世界では「正受(しょうじゅ)」といいます)、自分が「今」やるべきことに集中しなくてはならないのです。

前後裁断という言葉を肝に銘じておきたいと思います。

また有名な禅語に、
「応無所住而生其心」(まさに住(じゅう)するところ無くして、しかもその心を生ずべし)
という金剛経の一節があります。中国の恵能大観(えのうたいかん=六祖恵能という中国で最も人気のあるお坊さん 六三八~七一三)は薪を売って歩いているとき、この一節を聞いて出家を志されたそうです。

この住するところなくという意味は心を一つのところに止めずにという意味です。心が一つのところに止まると、そこにこだわりや執着が出てきます。そしてそれに心を奪われてしまい、大所高所に立った自由な発想ができなくなります。

お釈迦様も重大弟子の一人である須菩提(しゅぼだい)に修行中の心得について、
「須菩提よ、道を求めて修行する者は、清浄心(純粋なこころ)を起こすようにしなければならない。眼に見えるもの、耳に聞こえるもの、鼻でかぐもの、舌で味わうもの、からだに感じるもの、心に思うもの、それらのものに執着する心を起こしてはいけない。かくの如く、住するところが無くして、しかもその心を生ずるようにしなければならない」と言われたそうです。

修行中も下山してからも心得たいものです。

臘八大接心(ろうはつおおせっつしん)

臨済宗の大方の僧堂では毎年12月1日から12月8日の明け方まで"雲水の命取り"と言われている臘八大接心が行われます。これはお釈迦様が菩提樹の下で坐禅されて、7日目の12月8日に明けの明星(金星)を見て悟りを開かれたのに因んでのものです。

この1週間は1日と見なされ、睡眠時間も殆どなくなります。また作務も典座(てんぞ=台所)以外はしなくなり、1日のかなりの時間が坐禅となり、独参の回数も1日に2~3回となります。

1年に大接心が夏と冬の2回、その間に小接心というのが4回の合計6回ありますが、冬の臘八大接心が一番厳しく、また重要視されております。

佛通寺でも毎年12月1日から12月8日にかけて行われます。私は体力的に持つかどうかと思っておりましたが、気が張っていたせいかなんとか持ちこたえることが出来ました。ただ後半は氷が張るほどの寒波で、その中での夜坐(やざ=夜外で坐禅をする)はさすがにこたえ、ずっと震えながら身を縮めて寒さに耐えておりました。

この接心で一番感動したのは、朝の十時半ごろ打坐していた際、小鳥のさえずりが聞こえてきたかと思うと、暖かい陽射しが射してきた瞬間でした。
まるで極楽にいるような、とても言葉では言い表せない気分になり、魂だけ何十年か前の自分に遡ったような気持ちになりました。自然への感動と畏敬の念を覚えた瞬間でもありました。

寒い中での夜坐に耐えた後だったので余計に感じるものもあったのでしょう。自然の樹木や鳥や動物が我々に何らかの真実を語りかけているということを感じた瞬間でもありました。
全てのものは偉大なる宇宙法則により生かされているんだと感じました。それを人は神とか仏とか呼んでいるんだと。

佛通寺の本堂にも、「古松談般若 幽鳥弄眞如」(こしょうはんにゃをだんじ、ゆうちょうしんにょをろうす)と掲げられています。これは「樹木や鳥など自然界は我々に真実や念仏念法を語りかけている。真の仏法は目に一杯、耳に一杯だ」と言う意味です。

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初の外泊弁事

掛搭後3ヶ月くらいして入山以来初めての一泊付の弁事(べんじ=休み)が許され、久しぶりに自宅で泊まることが出来ました。

1泊とはいっても午後3時に佛通寺を出て翌日の夕方五時までに佛通寺に戻らなければならず、時間的な余裕はあまりありません。しかしこの様に家に帰れるとは思ってもみなかったので、私にとってはかけがえの無い時間を過ごすことが出来ました。

久しぶりの娑婆の世界は見るもの全てが新鮮で、久しぶりに自由に動き回れる喜びで一杯になりました。坊主頭以外の人達を見るのも久しぶりで、まるで違う世界に来た感覚になりました。

家に帰ってまず近所のちゃんこ料理のチェーン店へ家族と食事に行きました。私は妻と子供達と一緒に食事をするのが嬉しくて嬉しくて、ついつい酒を飲み過ぎてはしゃぎ過ぎてしまいました。
すると私がトイレに行っている間に小学5年の息子が妻に「父さん修行に行ってもあんまり人格が変わっとらんのう」と言ったそうです。
妻が子供に「普段は厳しい修行をしているけど今日はあなた達に会って嬉しいからああやってお酒を飲んでいるのよ」とフォローしてくれたそうです。
その息子もやはり私がいないと寂しいらしく「父さんが帰ったら一緒にキャッチボールをするんだ」と心に決めていたそうです。あの朝寝坊がまだ暗い朝六時に起きてきたので6時半から昔よく一緒にキャッチボールをした公園へ行きました。息子も私もとても満足しました。

妻と娘は、アカ切れで血がにじんでひび割れだらけになった私の足の裏を見て、夜寝る前にクリームを塗ってず~っとマッサージをしてくれました。そして娘は次の日、私を送るために学校からハアハアと肩で息を切らして汗びっしょりになって走って帰って来てくれました。息子は「社会見学があるから父さんを見送り出来ん」といってとても残念がっておりました。

家族とは会えなくなって逆に絆が深くなりました。そして会えなくなってはじめて、家族の有難さも知ることができました。
翌29日の午前中は退職した会社へお邪魔しました。みなに引き留められたのに退職した経緯があるので少し気が引けていたのですが、皆さんとても暖かく迎えてくれました。
また社長室へもお邪魔しましたが、その社長さんも建長寺僧堂(鎌倉にある同じ臨済宗の僧堂)で7ヶ月間実際に雲水として修行された経験がある、れっきとした元雲水です。僧堂の様子をとてもなつかしそうに聞いておられました。

「辛くて木から飛び降りたことがある」とか「今でも僧堂に入れられる夢を見ることがある」、「接心の時叩かれて警策が二本折れた」、「同夏(どうげ=同期)の者とは今でも定期的に集まって食事をしている」とか興味深い話をいろいろと聞かされました。また後日僧堂に差し入れまで送って戴きとても感激致しました。

また仕事でお世話になった地銀二行へも寄ったのですが、皆さん作務着に坊主頭で行った私をとても暖かく迎えてくれ、僧堂の様子を興味深く聞いて「へえ~、まだそんな世界があったんですか」と言っておられました。

初の弁事で私はつくづく「ありがたい人生を送らせて戴いているんだなあ」と気付くことができました。

   

禅堂での食事について

禅堂での食事についてご紹介したいと思います。食事は修行の中でも重要な位置を占めておりますが、食事の前にお経と共に読む「五観文」(ごかんもん)に禅の食事に対する考え方が集約されておりますので、ここでご紹介致しますと、

1つには功の多少を計り彼の来処を量る
この食物が食膳に運ばれるまでには、多くの人々の苦労と天地の恵みがあったことを感謝します。

2つには己が徳行の全欠(ぜんけつ)と忖(はか)って供に応ず
自分の修行が、食事をいただくのにふさわしいか反省しつついただきます

3つには瞋(しん)を防ぎ、過貪等(とがとんとう)を離るるを宗とす
この食物に向かって、貪(むさぼ)る心、厭う心を起こしません

4つには正に良薬を事とするは形固を療ぜんが為なり
この食物は生命を保ち、修行を続けるために必要な良薬と考えて戴きます。

5つには道業を成ぜんが為に、当(まさ)にこの食(じき)を受くべし
修行を通じて悟りを得るために、この食事を戴きます

一粒の飯も無駄にすることは許されませんし、出されたものは全て自分の持鉢で戴いて最後に持鉢をお茶で洗ってそのお茶を飲みます。お粥の入れ物(木で出来た汁器)もお茶で洗って飲みます。また箸の上げ下ろしに始まって作法にも厳しく、お代わりなどは全て手で合図されますし、漬物を食べる時も音を立ててはなりません。三黙堂といって、食堂(じきどう)と禅堂と浴堂では音や話し声は禁物とされているのです。

写真
得度前の私 

最初に義父から「僧堂では漬物を食べるときも音を立てちゃならんから、ニシる様に噛むんじゃ」と聞いたとき「ニシるとは何ちゅう意味じゃろう?」と大笑いしながら聞いておりました。
音をたてるとまたシバかれるので、最初は噛まずに飲み込んだりしておりました。あの時笑わずによく噛み方を聞いておけばよかったと後でつくづく思いました。

食事の内容ですが、自分たちが畑で作ったものや、檀家さんや信者さんからご供養されたものを頂きます。
朝は定番でお粥と漬物だけと決まっております。
昼はご飯と汁とおかず一品です。おかずは世間一般でいうと非常に粗末なもので、例えばかぼちゃの煮たのであればそれだけが3~4切れくらいです。
晩は昼に作ったものを再度頂くので、昼のおかずと冷やご飯に汁となります。

また「食い上げ」という恐ろしい決まりがあって、作ったものは残さず全て食べなければなりません。最後に食い上げなければならないのは通常一番下の者となります。私が入る前に一人の雲水がこの食い上げにより、救急車で病院へ運ばれたそうですが、今はそういう事態は幸い起こっておりません。

食事を作る役のことを僧堂では典座(てんぞ)と呼び、非常に重んじられており通常は古参の雲水が勤めることとなりますが、佛通寺では雲水が少ないため一週間毎にローテーションを組んでいます。私は料理の経験など全くないので最初は戸惑いましたが、みんな何でも食べてくれるので申し訳ないと思いつつ徐々に作れるようになってきました。

自分で作るようになって初めて、これまでいかに妻や母に苦労して作ってもらっていたかを思い知らされました。それをこれまで感謝せず、ただ自分の食欲を満たすために食べていたことを非常に申し訳なく思いました。

また典座をして野菜の持つ本来の味のすばらしさも知りました。不器用な私でも皆に喜んでもらえる様に出来ているかなと思いつつ味見をすると、大根や芋や白菜やなすび等の素材本来の持つ味のすばらしさに驚くと共に天の恵みに感謝する気持ちになります。そして野菜たちがとても愛おしく思えてきます。こんなことは娑婆にいたときは、感じたことがありませんでした。

自分がいただく時も同じ気持ちです。美味しい美味しくないよりも、先ず「感謝する心」が大事です。精進料理の原点はこんなところにあるのかなと思いました。僧堂の食事は世間的にみると非常に粗食ですが、娑婆にいたときよりも美味しくいただいておりますし、風邪ひとつひかず健康に過ごしております。

雲水志望2人のリタイヤ

12月中旬と1月初旬に私の後輩となるべき2人の居士(まだ入制中のため、掛搭して雲水にはなれない)が入ってきました。12月に入ったのは、28歳の身長186㎝の大柄なちょっと突っ張り風の兄ちゃんでした。髪も短くはしておりましたが、茶色に染めた後が残っていました。これまで色々とあったそうですが、坊さんになりたいと思い立って九州から両親と共に佛通寺にやって来ました。来て直ぐに「坊さんになりたいなんて百年早かったです」と言っていたかと思うと、翌日の昼過ぎに突然姿を消してしまいました。

それから10日くらいして今度こそと再びやってきたのですが、1週間経った日に私と掃除をしていると突然、「之っさん、いろいろと世話になりました。やっぱり帰ります」「おい、突然何を言うんじゃ」「もういいです。3日前から今日帰ろうと決めていたんです。絶対に帰ります」 "ふ~ん。ということは4日目でもう帰ろうと決めていたのか。"と思いつつ仮に引き留めても彼は続かないと思い、強くは引き留めませんでした。

もう1人は1月6日に入ってきた29歳の東広島市から来た「坊さん志望」の真面目な青年でした。得度式も済ませ、衣も揃え髪も剃り上げて気合いたっぷりでした。良く動くしやる気一杯で、なかなか頼もしい後輩が来たと内心喜んでおりました。

ところが10日位経ったある日、本人から「もう辛抱の限界なので下山する」と申し出があったそうです。本人によれば寒さが一番辛かったそうです。
先日の10数年ぶりの寒波で佛通寺でも、外はマイナス8度、部屋の中もマイナス3度となりました。このなかで朝3時半に起きて裸足で朝課に出るのは確かに厳しいものがあります。まだ雲水ではなく居士ということで、厳しくはあたっていなかったのですが、環境の変化や今後に対する不安などその他にも様々な原因があったのだろうと推測されます。

下山する日(本人は別の場所に移っていた)私は少しだけ彼と話をすることが出来たのですが、「また暖かくなったら戻っておいで。みんな待っているから」と声をかけると、彼はくるりと私に背中を向けて肩を震わせて泣いておりました。そして「色々と教えて戴いたのに申し訳ありません」と声を詰まらせながら言いました。彼の無念さがひしひしと伝わってきましたが、禅寺では「来る者は拒まず、去る者は追わず」という大原則があります。

残念な結果になりましたが、一旦は仏の道を志した2人の若者がこれから先これにめげることなく、様々な苦難を乗り越えて人生を送って行くことを観音様にお願いする次第です。合掌 

                

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居士の人間模様

佛通寺では最近三人の居士さん(出家してない人)が来山してきました。雲水ではないので禅堂ではなく、別に寝泊りすることになります。

1人は28歳の広島市から来たU君という若者なのですが、月例サンガ会という座禅会終了後1ヶ月程修行させて欲しいと申し出てきました。最初はサンガ会のオリエンテーションでも一言も喋らずただ「ぼぉ~」としていただけで、「こいつ1ヶ月も大丈夫かいな?」と思っていたのですが、修行していくうちに徐々にいろんなことに気付くようになり動きもよくなりました。「どういう動機でここへ来たの?」と聞くと「はぁ、自分を見つめてみたいと思いまして」と力弱く答えておりましたが、修行が終わったら単身東京で暮らすつもりだと言っておりました。

そのU君がある朝お粥を食べているとき突然涙を流して泣き出しました。すすり声を出しながら粥座の間ず~っと泣いておりました。皆気付いていたのですが、声をかけずにおきました。

粥座の後私は老師を車でお送りしたのですがその時老師が、「さっきU君は本来の自分というものに触れたんだよ。そして寒い中お粥を食べなくてはならなくなった自分の過去というものを思い泣いたんだよ。悟りの一つのようなもんだ。私にも経験がある」と言われました。そして「この後自分を変えていこうという良い方向になればよいが」と言われました。

その後彼は1ヶ月の修行を無事勤め上げました。雲水も全員「彼は変わった。よく頑張った」と言っておりました。そしてU君は帰りに佛通寺の売店で禅の本を3冊買って帰っていきました。
U君は私が下山後、再度1ヶ月ほど修行に来たそうです。

もう1人の居士さんは関西方面から来られた50代半ばのおじさんです。保証人になって全財産を失った(2億円以上あったらしい)そうですが、あるご縁があって佛通寺に夜逃げ同然という形で来山されました。

話しかけた方が少しでも気が紛れると思い私もよく話しかけているのですが、関西人らしくとてもお茶目な性格で、こちらのほうが「そんなん言うとる場合じゃないだろうに…」と思うくらいです。

修行に来られたわけではないので坐禅やその他修行・法式の類は一切せず、畑仕事や境内の木々の剪定にもっぱら精を出しています。もともとお百姓さんなので作業は慣れたものでこちらも勉強になります。

「僧堂の畑は土を酸性にせんから育ちが悪いんや」、「どうすれば酸性になるのですか?」「石灰撒いたら酸性になるんやが。あなたこれにサンセイですか?」と全てこういう調子です。

ただ夜はずうっと眠れなかったらしく「最近やっとすこしは眠れるようになったわ。髪の毛もぎょうさん抜けたし、息子から電話があったけど自殺だけはするなと言われたわ」と言っておられました。何とか立ち直るきかっけでもここで掴んで頂けたらと思っています。ゼロからの再スタートで大成功した人はいくらでもいるのですから。

この居士さんとは下山してからも、幾度かお会いしましたが「ゆっくり生活出来るし、体の調子もものすごええわ。おまはんがおらんようなってちょっと寂しいけど、ここは山や川があってええとこや」と言っておられました。

また某一流大学を出て、一流会社に勤め、妻も子供もある30歳過ぎの人が「社会を離れてじっくりと人生考えてみたい」と東京から来られたこともありました。なかなかハンサムで温厚そうで傍目には何の不自由もないエリートサラリーマンに見えますが、「近々会社も辞めて、離婚もしようと思っている」と言われました。何ヶ月かして再度来られたのですが、実際その通りになったそうです。しかし「お世話になりました。お陰様で、心が晴れました」と言っておられました。

佛通寺では昔から居士さんがよく来山されます。それぞれに事情や悩みを持って来られるそうですが、その殆どが、精神的な悩みであります。そして佛通寺で何日かわれわれ雲水と共に暮らし、目には見えない"何か"を掴んで帰られる方もいらっしゃるようです。

いろんな居士の方たちとお話しても、精神的な安定の大切さをつくづく感じます。
お釈迦様も『法句経』の中で「母や父や親族が、いかなる財産や援助を与えても、本人が正しい精神を持つこと以上の幸福はあり得ない」
と言われております。

僧堂生活は確かに厳しく不自由な面も多いのですが、娑婆の生活と比べて良いところは利害関係や取引関係が無く、お互い自己完成という目的の為に切磋琢磨しているということです。それだけに物事に心を留めて執着することなく、自由な心になりやすく本来の自分というものに触れやすくなるのだと思います。 お釈迦様は出家される際「この在家(娑婆)の生活は狭苦しく、煩わしくて塵の積もる場所である。ところが出家は広々とした野外であり煩(わずら)いがない」と言われたそうです。

修行生活も少し慣れた頃になって私も、「自然に恵まれた僧堂で修行できることの幸せ」を感じるようになりました。

娑婆の世界でも私心、邪心の無い無心の境地でずっと暮らしていければ良いのですが、悲しいかな現代社会においてこれは不可能なことです。これまでの日本は欧米的な物質中心の開発を進めてきたため、東洋的な心や精神の開発がおろそかになっていたと言われております。

このためいろんな歪みも出てきているように見受けられます。これからは心や精神の開発が重視されなくてはならない時代になってきているようです。

私が直日に

以前にもご紹介致しましたが、僧堂では掛搭(かとう=入門)してからの日数の長さで序列が決まり、これにより絶対的な封建的関係が生じることとなります。佛通僧堂ではついこの前までは、私が一番下だったのですが、二月に当時の直日さんが暫暇(ざんか=下山すること)し、四月に入ってさらに二人の先輩雲水も続けて暫暇致しました。

そしてこうした中、四月初旬にかけて相次いで五人の雲水が新たに掛搭してまいりました。つまり私がいきなり私を含めて六人の雲水の最古参となり、リーダーである直日となったわけです。

ここに天と地の待遇の変化が訪れました。これまでは怒鳴られながら走り回っていたのが、今度は怒鳴りながら新到を使う立場となりました。

仕事量も減って体力的には楽になりましたが、今度は彼らに少しでも速く多くのことを覚えてもらうことと僧堂の伝統を絶やさないことに神経を使うこととなりました。会社に勤めていた時代に課長になった頃を思い出しました。新到のたどたどしい動きを見たり、ぎこちないお経や回向を聞いていると私の掛搭した当時のことを思い出すと同時に、私もいくらかは成長したかなと思うようになりました。

また怒鳴る方の立場になって分かったのですが、人を怒鳴ったり警策で殴ったりするのもなかなか辛いものがあります。特に私はそういう厳しさを前面に出すことが苦手なタイプであることがわかりました。
と同時にこれまで私の上であった先輩雲水達も年上の私にそういう態度で接するのはさぞやりにくかっただろうなあと思いました。「本来は心優しい彼らだから余計にやりづらかっただろうなあ」と思い至るようになりました。

今回の新到の追い出し(庭詰めの途中で警策と大声で追い出すこと)は、私が5人全てを担当することとなりました。最初に厳しくすることが親切と思い、警策で辺りをバシバシ叩きながら腹の底から大声で「こりゃ~、とっとと出ていかんかぁ~」と怒鳴りつけてやりました。

うち一人は今にも泣きそうな顔になりおびえていたので「こいつも追い出しのしきたりを知らずに来たのかもしれん。このまま帰ってしまってはまずい」と思い、玄関の外へ追い出した後で「10分位その辺をうろうろして帰ってこい。まあ、これでも飲んで頑張れ」と言って缶ジュースを渡してやりました。

歴史は繰り返され、因果は巡るんだなあと思いました。ともあれこうして5人全員無事に、庭詰と旦過詰を終えることが出来ました。

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佛通禅堂の雲水達(右から5人まで)

5人の新到のうち3人はお寺の息子で、2人は私と同じ在家の出身です。

禅宗のお寺に生まれ寺を継ぐということは、僧堂での修行を運命的に受入れることになります。がこれもいろいろケースがあり、1人の様に花園大学を出て「禅塾」という僧堂の予備学校のようなところで2年間鍛えてきたものもいます。またもう1人の様に「袈裟(けさ)を持って来い」と言ってもじっとしているのでひょっとしてと思い「お前、袈裟とは何か分かるか」と聞くと「分かりません」というものもおります。「実家は寺じゃないのか?」と聞くと「それは言わんで下さい」といった調子です。

在家出身者は、「自分を磨いて、坊さんになりたい」とか「精進料理を勉強したい」とか動機は様々です。動機はどうであれ最初は特に厳しく感じるらしく、元自衛隊にいたという雲水に「自衛隊と僧堂はどちらが厳しいか?」と訊ねると、「そりゃ~断然僧堂の方が厳しいです」ということでした。

残念ながら体調を崩してしまった雲水もおりました。元々胃腸が弱く、掛塔後も東司(便所)で戻しながら食事をしていたのですが、とうとうドクターストップがかかってしまいました。
実家の寺へ帰ることになった日、彼はとても無念で悔しそうな顔をしておりました。そんな彼の顔をみて私は、辛いとか何とか言いながらも「元気な体で修行が出来るということはありがたいことなんだ」としみじみ感じました。
「直日さんが暫暇(ざんか=下山)されるまでには必ず帰ってまいります」と言っていたのですが、とうとう私が下山するまで体調は回復しなかったようです。

今回の新到たちを見ていて羨ましいのは同夏(どうげ=同期)の者が沢山いることです。僧堂生活でいろんなことがあっても話し相手がいるととても心強いものです。その点、1人入った私は羨ましく思います。
でも先に下山した先輩雲水が佛通僧堂に訊ねて来られたときに、当時の直日さんが「之っさんは1人で掛塔しているから、その辺りは注意して観てやれよ」と言ってくれていたそうです。厳しい中での暖かさを感じて私はじ~んと来ました。

企業研修

佛通寺では3月の終盤から約半月間、企業の新入社員の研修で数百人の研修生が訪れて我々雲水も大忙しです。企業によっては「とにかく思い切り厳しく鍛え上げてくれ」との要望があるので大声で怒鳴りつけたり、警策で叩いたりします。

そうすると初めはだらだらしていた研修生も4泊研修の3日目位になるとかなりピリッとしてきて、外から見ても変わってきたなと分かるようになります。基本方針としては、宗教を離れて社会人としての厳しさや礼儀作法、食物を中心としてものの大切さを学んでもらうように心がけています。
ある研修生が帰る時「自分は親からも怒られなかったので、怒ってくれる人がいて嬉しく思いました。厳しくされたけど、本当は僕たちのことをすごく考えてくれているんだと解りました」と言ってくれました。

研修期間中には延べで約3千人分以上の食事を作ったことになりますが、なんとこの間の食費が1万円と少ししかかかりませんでした。米は檀家さんや信者さん達から戴いたものですし、野菜も戴いたものや、自分たちで作ったものや採集(つくし、わらび、竹の子等、昨年の塩漬もある)したもので殆どまかないました。こんにゃくも同じ地区のこんにゃく工場の規格外品(念のため品質には問題ありません)を大量に戴きました。結局研修期間中に食材で購入したものは、ひじき(これが数千円と一番高かった)と豆腐、あげ、人参、醤油だけでした。

昔ベテランの雲水は典座を任されると、どの畑がどこの檀家や信者さんの畑でいつ頃何を作るのかだいたい把握していて、ちょくちょく廻ってみては少しづつ分けて戴いていたそうです。

お寺であればこそ出来ることなのですが、ここで修行して私は「お金が無くても人間何とか暮らせるものだ」と思うようになりました。

「名利を求めず/貧を憂えず/陰処、山深くし て俗塵を避く」
という禅語がありますが、道を極めた上でこういう生活が出来たならいうことはありません。

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悲しい葬式

先日、私にとっては3回目の葬式に出席致しました。初めての時は様子が全く分からずによく失敗しておりましたが、3回目ともなるとだいたいの流れも分かってきて余裕も出てまいりました。回向(えこう)等も落ち着いて、また少々の自信を持って出来るようになりました。

ただし今回の葬式はとても悲しくてやりきれないものでした。中年の男性なのですが、借金苦による自殺でした。葬儀の間中ずっと男性の母親と思われる80歳位の女性が大声をあげながら泣いておりました。娘さんと思われる中学生くらいの女の子も、制服姿でずっと泣いておりました。列席者も限られた身内と近所の人だけで、とても重苦しい雰囲気でした。

こんな様子を見ると、自殺というものが如何に周囲の人間を悲しめ、苦しめるものか思い知らされます。天から与えられた命を自ら絶つわけですから、自然界や宇宙の法則にも逆らうこととなります。

佛通寺の前管長が「この世はみんな課題を持った人たちが生まれてくるところ。そして自己成長をするところ」と言われておりました。自殺するということは、この人生の課題を自ら放棄したこととなります。

日本は不景気のせいもあって年間自殺者数が約3万3千人位と聞いておりますが、これは1日平均各県で2人の計算となるから驚きです。

佛通寺にも自己破産した人が来られておりますが、当分佛通寺で自然に囲まれてのんびり暮らすそうです。
たとえ全財産を無くしたとしても、バランスシートには乗っていない目には見えない一番大切な資産をみんな持っております。それは自分を支えてくれる妻や子供や両親などの家族、たくさんの友人、自分の経験や能力、神や仏を信じる心、自分を信じる心、そしてこうありたい、こうなりたいという願望等です。
「人間本来無一物」(ほんらいむいちもつ)と言いますが、執着すべきものは何もありません。あの世へ持って行けるのは自分の魂だけです。この魂の修行をするために、生きているのです。このことを考えても、何が一番大切か、何をしなければならないか解ります。

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修行生活

早いもので、昨年の9月に入山して9ヶ月経過しました。入山当初は僧堂生活が辛くてたまらなかったのですが、次第に自分がどれだけのことを学ぶことが出来たのだろうか、また残りの期間でどれだけのことを学ぶことが出来るのだろうかと思う様になりました。

当初予想していたものと違い、僧堂生活は作務(さむ)が中心で坐禅が一日の時間の大半を占めることは接心以外にはあまりありませんでした。作務は食・住などの生活の身の回りが中心であり、お経や禅の知識や葬式や法要のノウハウ等を勉強する時間は殆どありません。

私はここへ来るまでは自分の身の回りの衣(洗濯や裁縫)、食(畑作りや野山での採集に始まり調理まで)、住(掃除、建物修理、肥え汲み、草むしり)に関連することは殆どしたことがありませんでした。

ただこうした生活と密着した基本事項がキッチリとこなせる様になり、いろんな場面で効率的にこなす工夫が出来る様になったときにはじめて「自分も、本当の生活力がついて来たのかな」と思うようになりました。
私がそうだったように、特に男性は自分の身の回りのことが出来ない人がいかに多いことかと思います。よく考えれば不思議なことです。

またこちらに来てから、「お茶くみ」や「ゼロックス」などこれまで会社では人にやってもらっていたことも自分でやりました。
「お茶くみ」にしてもどうしたら効率的に美しく失礼の無いように、しかも状況に応じてできるかをよく考えます。一度先輩の雲水がどの様に「お茶を出しているか」について聞きしましたが、玄関での応対に始まり如何に整然とした美しさを追求しているのか感じ入るものがありました。

どこの社会でもそうだと思いますが、結局「仕事が出来る人」とは、「お茶くみ」や「コピーとり」のルーチンワークをやらしてもキッチリとこなせる人なのです。小さな仕事をないがしろにする人は、大きな仕事も出来るわけがありません。

 

「自我」と「自己」

禅宗は「聖道門」(しょうどうもん)といって、他に救いを求めたりすることなく、自らが自らの中に内在する「仏」を発見し目覚めていくという考え方です。
したがって「これを唱えればどうなる」といったいわゆる「お題目」や、「御利益」という考えはありません。

そして自らの「仏」に目覚め、悟りを開く手段として坐禅や公案というものがあります。
大方広仏華厳経(だいほうこうぶつけごんきょう)によると、お釈迦様は悟りを開かれたとき「奇なるかな、奇なるかな。森羅万象全てのものはみな仏性を具えている」と言われたそうです。そして「但し人は分別や執着心があるからこれが見えない」とも言われたそうです。

人間はどうしても「自分」を意識してしまいます。無意識のうちに自分を中心として考え、そして自分に執着して物事を考えます。
一方で、森羅万象、ひいては宇宙全体は宇宙法則により動いています。
ここにギャップが生じて、自分の思い通りにならないため「苦」が生じてくることになります。自我の意識や執着心が強ければ強いほど苦は大きくなります。

執着する自分を「自我」といいます。皆が自分を捨て、相手のことや全体のことのみ考えたら素晴らしい世界になります。でもこれは不可能に近いのが現実です。

お釈迦様の時代、コーサラ国のパヒナディ大王のお后であるマリカ夫人は、大王にこう言いました。「お釈迦様は『自我を捨てよ』と言いますが、どう考えても私には自分が一番可愛いとしか思えない」と。大王も「実は私もそう思うんだ」といって二人は祇園精舎のお釈迦様の処へ質問に行きました。
お釈迦様は言われました。「その通りだよ、マリカ。人はどこに赴こうとも自分より愛しいものを見つけることはできない。それが分かったら人を大切にしなければならない」

自分が可愛くて、自分に振り回されているときは、「自我」ですが、その自分が見えたら「自己」になります。
いかにして自分の一番奥深くにある「仏性」、つまり宇宙法則とぴったり一致した「本来の自分」を見つけるか、そのための修行であります。

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坐禅の効用

ここで坐禅について説明致します。坐禅は、①調身(ちょうしん=姿勢を整える)、②調息(ちょうそく=呼吸を整える)、③調心(ちょうしん=心を整える)の三つの大きな要素があります。

①調身(ちょうしん=姿勢を整える)
僧堂での坐禅は先ず衣を着て禅堂に入り、禅堂内は明かりを薄暗くして線香に火を付けます。そして単布団という坐禅用の布団の上で姿勢を正します。背筋を延ばし、お尻の下に座布団を2~3枚敷いて下さい。左右の足を反対側の足の太股に乗せますが、乗らない場合は片足だけで構いません。無理のないリラックスした姿勢であることが重要です。

②調息(ちょうそく=呼吸を整える)
次に呼吸ですが、これが最も重要です。先ず丹田(たんでん=おへその下の握り拳一つくらいの位置にある場所)に力を入れてゆっくり、ゆっくりと息を吐き出します。
そして吐ききったら、その勢いで今度は丹田を意識しながら(膨らませながら)ゆっくりと息を吸います。ゆっくりであればあるほど良いのですが、無理して苦しくなるほどゆっくりする必要はありません。慣れてくれば1分間に3呼吸位になります。
また、呼吸は鼻で行って下さい。
月例坐禅会や企業研修で口で呼吸している人がたまにいらっしゃるのですが、本来人間の呼吸器官は口では無く鼻なので、口で長時間呼吸していると喉を痛めたりすることがあります。そして息を吐く時は体の使い切ったエネルギーや色んなもやもやを外へ吐き出し、息を吸うときは宇宙のエネルギーを頭の先から丹田へ入れるイメージで呼吸すると良いでしょう。
これが丹田式呼吸(たんでんしきこきゅう)とよばれる呼吸法です。
人間の自律神経は、心臓や胃腸・肺等の消化器官・循環器官・呼吸器官を我々の意識とは別に(無意識のうちに)自然にコントロールしてくれています。しかし、イライラしたりストレス状態になってくると脳が活性化して必要以上に分泌液を出したりしてしまい、胃潰瘍等の原因になったりします。こういう状態になっても、自律神経は我々の意識ではコントロールすることは出来ないのです。

しかしこの自律神経の中で、唯一人間が意識的にコントロール出来るのが呼吸なのです。呼吸は普段は無意識にしておりますが、意識的にコントロールすることも出来ます。つまり呼吸を通じて逆に我々が意識的に自律神経に働きかけることが出来る訳です。
イライラしたりストレスを感じている時、或いは仕事や勉強に集中出来ない時にこの丹田式呼吸を試してみて下さい。坐禅の姿勢でなくても、椅子に坐ったままでも構いません。ゆ~っくり・ゆ~っくりと丹田で呼吸することがポイントです。不思議に心が落ち着いてきて、心身がリラックスし、集中力も高まることでしょう。

③調心(ちょうしん=心を整える)
そして最後に調心ですが、これがなかなかやっかいです。坐禅に集中しようとしても、どうしても雑念・邪念が湧いてきて集中することは難しいものです。勿論私もそうです。皆さんも勉強や仕事をしていてもついつい別のことを考えて、本来やらなければならないことが疎かになるということを経験されたことがあると思います。この状態は「集中できていない」のではなく「雑念に執(と)らわれている」からであります。

雑念というものは誰にでも湧いてくるものであり、湧いてきて当然なのです。つまり雑念が湧いてくるから集中出来ていないのではなく、雑念の方へ注意が向いてしまっているのが、集中できていない原因なのです。
今坐禅しなくてはならないのにふと気になっていることが頭をよぎると、そちらを考えてしまい本来集中しなければならないことを忘れてしまう。これが悪いのです。頭をよぎる雑念を自ら追いかけてしまわないことが肝要です。勉強にしても仕事にしても同じことです。坐禅では、呼吸の数を数えたりして雑念に執らわれないようにする方法もあります。
ただ雑念も悪い面ばかりではありません。「ひらめき」というのも雑念のなせる技なのだそうです。過去の悟りや大発明などが、坐禅中や研究中などでないことが多いのはこうした雑念の作用によるものだそうです。

それはともあれ坐禅の場合は、こうして調身(姿勢)、調息(呼吸)、調心(心)と整えていき三昧(ざんまい)の境地に向かっていくわけです。
いろいろ申し上げましたが、実際のところは毎日坐っている雲水だって集中していくのは難しいものです。ですから皆さんも楽な気持ちで坐禅に挑戦してみてください。

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三昧(ざんまい)

精神統一を表す禅語で"三昧"という言葉があります。ひらたい言葉で言えば「なり切る」ということです。

三昧とは相手と自分の間に何者も介在しない
(鈴木大拙)

とか言われております。

先日近くの竹藪に竹の子掘りに行きましたが、素足に草履で"まむし"が良く出るというやぶへ行ったので最初は竹の子よりも蛇が気になって(実は私は蛇が何より苦手)、ビクビク、キョロキョロばかりして縄を見てもギョッとしておりました。しかし途中から竹の子掘りに夢中になり、汗だくになり必死で竹の子掘りに没頭しておりました。気が付いたら時間も随分経過しており、竹の子も抱えきれない位の大きな袋へ二ついっぱいに入っておりました。

その間は"蛇に出会ったら"とかいう"我(われ)"のことは一切頭をよぎりませんでした。終わった後で「ああいうのを三昧、なり切る」ということなのかと思った次第です。意外と身近に経験出来るものです。「竹の子掘り三昧」、「竹の子掘りになり切る」ということであります。

また先日、僧堂近辺を皆で一斉に掃除していた時のことです。雲水は皆それなりに一生懸命に掃除していたのですが、老師の集中力は側で見ていても全然違いました。

とても七一歳とは思えない活気にて、鎌で草を刈ったりほうきで掃いたり、まさに「掃除三昧」、「掃除になり切る」状態でした。後で本人が漏らしていたのを聞いたのですが、「どうも手が痛いと思ったら、あのとき鎌を握りすぎて手の皮をむいでしまった」ということでした。
手を見ると親指の内側の皮がめくれて肉が出ておりました。

ここまでなっても気付かずに、つまり我を忘れて掃除に打ち込めるのはさすがだと思いました。
我を忘れて打込めば、我に返ったとき過分の結果が出ているものです。

仕事でもスポーツでも、また受験勉強でも結果がどうしても気になるところです。願望を持つということは重要ですが、結果にとらわれてはなりません。
禅では「任運無作」と言う言葉があります。これは運に任せるという意味ではなく、結果や過去を思うことなく現在目の前にあることのみに集中する、つまり三昧になるという意味です。

スポーツの勝利インタビューでよく「一つ一つ夢中でプレーしていたら、気がついたら優勝していた」というのがこれです。勝とうとすると(結果を求めると)、現在に集中出来なくなり、結果や将来に対する不安も生じて苦を伴うことになります。

夏末大接心

7月下旬から8月上旬にかけて1週間、夏末(げまつ)の大接心がありました。冬の大接心は寒さとの戦いという感じでしたが、夏の大接心は暑さと蚊との戦いといった感じです。禅堂内は網戸があるので蚊はおりませんが、当然クーラーや扇風機が無いので中は蒸し上がります。しかも坐禅するときは以前ご紹介致しましたように、襦袢(じゅばん)に"しもふり"と言う着物、その上に衣を着用しますので汗びっしょりになります。毎日洗濯しても夕方にはぷ~んと臭ってきます。

事務所写真
おかもと診断士事務所内(東桜町)

私は特に汗かきなのでサウナに入った時のように、汗をかいては水分を補給するというくり返しでした。それでも集中することを心がけたのですが、夜座(夜に外で坐禅する)では蚊に刺されるし、環境に左右されないというのは難しいものです。少々寒くても12月の接心の方がやりやすいと思いました。

この春掛搭してきた新到四人(1人は病気で帰省中)にとっては初めての大接心となった訳ですが、皆30歳以下と若いので体力的には何とか持ちこたえた様です。そして皆多かれ少なかれ何かを掴んだようです。

夏の接心が終わると雲水はお盆の棚経に、西は広島市から東は尾道市まで地図を片手に、4人で約2百件の檀家さんや信者さん宅を廻ることになります。

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ナポレオンの法則とお釈迦様

皆さん「ナポレンの法則」というものをご存知でしょうか? これは今から百年近い昔の話ですが、当時のアメリカの大富豪カーネギーがナポレオン・ヒル(後に大統領の補佐官)という人に、「世の中で成功した人、或いは成功すると思われる人を5百人紹介するから成功者に共通する法則を見つけ出してくれ」と依頼したものです。

この5百人の中にはルーズベルト大統領や当時まだ無名であったトーマス・エジソンやヘンリー・フォードなど、アメリカの著名人が沢山入っておりました。

最初は裕福な家庭に育つとか、高い教育を受けている、性格が明るい、運が良い、人脈があるなどといろんな結果を想像しておりましたが、実際に調べてみると、ことごとく違っておりました。

エジソンのように満足な教育を受けていないものも多く、家柄や家庭環境も全く関係なく、人に騙されて倒産を経験した人もいたり、ヘンリー・フォードのように無口で無愛想な人物もいました。

しかし二十年の歳月を費やしとうとう成功者全てに共通する点を見つけ出しました。そしてこれを「成功のゴールデンルール」として17の条件にまとめあげました。

その成功者に共通する条件とは、第1の条件が「願望」で第2の条件が「信念」、第3の条件が「深層自己説得」です。

そして「願いには自らを実現しようとする力をもっている。願望を強く信念として持ち、その信念を深層意識にまで浸透させると願いは必ず実現する」としております。

「マーフィーの法則」というのがありますが、これも殆ど同じ内容であり、「人生はあなたが思った通りになる」としております。

わたしは以前からこれらの法則に興味を持ち、「お釈迦様はこの点について何か言われているのかな?」と思っておりました。そしてある時とうとう見つけたのです。以外に身近なところにありました。

『法句経』はお釈迦様の実際のお言葉が243の詩の形で編纂されておりますが、何とその第一番にありました。

写真
チベット ポタラ宮殿前で修業時代の友人と

それは、「意思はすべてに先立つものであり、もろもろの事象はすべて、意思によって生起する。意思こそはすべての事象を支配する」という「縁起の法」を説いたものです。

人間が生きていく上で、正しい願いや志を持ち実現していくことの重要性を再認識させられました。

また法句経の最も有名な句の一つに「己こそ、己のよりどころである。己をよりどころとせずして、何をよりどころとするのか。よく心の整えられた己こそ、まことに得がたきよりどころとなる」という句があります。(法句経160)

この「よく整えられた己」とは、ビジネスにおいては、「お客様の喜び」や、「社会への貢献」「人間の成長」などに、自分がどれだけ思いや情熱を注ぐことが出来るかということになるのだと思います。

"尊いこころざし"を持って生きること、これこそ真に豊かな人生といえるのではないでしょうか。

そして願いや志を強く持ち、自分はそれを実現するんだと信じましょう。思いは必ず実現します。

お盆休みとヘルニア

お盆の棚経が終わると、僧堂の行事も一段落するので少しお休みを頂いて実家へ帰りました。久しぶりに家でゆっくりと過ごすことが出来ました。

最後まで猛反対していた私の両親ですが、やはり心配していたらしく母は私の元気な姿を見て安心したようです。

父親は1年で随分体調を悪くし、あれほど好きだった車の運転も出来なくなり車も処分しておりました。家の中を歩くのも苦労するような状況であり、原因の一部は私にもあると思うと、とても心を痛めます。私は本当に親不孝者です。

長男は昆虫が好きなので、僧堂の近くの木に2~3日朝夕通って20匹ほどクワガタムシをお土産に持って帰ってやりました。とても喜んで「佛通寺はええとこじゃのう。父さんあと2~3年行って毎年捕まえて帰ってくれりゃええのに」と言っておりました。ただ妻に聞くと子供達もやはり私が居ないのを寂しがるそうです。

私が一番嬉しかったのは、息子は小学校六年で塾に通ったりして結構大変なようですが、たまに「父さんも、頑張ってるんだから…」ということを言うそうです。また私が慣れない料理を僧堂でしていると聞いて、「僕も作ってみる」と言って何回かチャーハンを皆に作ったこともあったそうです。

小学校三年の娘も何となく「父さん頑張っているんだ」と思ってくれているようです。ただ娘に「父さんと外へ出るときは帽子をかぶってくれんと絶対に一緒に歩かん」と言われたときは少々ショックを受けました。

お盆休みが終わればもう1ヶ月半で修行も終わるなあと思っていた矢先のことですが、休み2日目に突然腰が痛くて歩けなくなりました。立つことすら出来ないようになり、福山市内の病院へ行くと「ヘルニアです。手術が必要です」といわれました。
「脊髄へはメスを入れない方がよい」ということを何人かの人から聞いたので山陰や県外の病院を何件か廻ったのですが、結局倉敷の中央病院で「取り敢えずブロック注射を打ってから様子をみた後で手術を考えましょう」ということになったのでそこで治療を受けることに致しました。

幸い経過が順調にいって、手術は受けなくても良かったのですが、完治するまでの間は修行を中断することとなってしまいました。

因果の法則によると、世の中には偶然ということはなく、全ては因果という糸で結ばれていることになります。

花に例えれば、種を撒くという「因」があり、光や水という「縁」があり、そして花が咲き、実がなるという「果」が生まれるのです。
アサガオの種を撒けばアサガオが咲き、ヒマワリの種を撒けばヒマワリが咲くのです。
またこの「果」も諸行無常といって永遠な存在ではなく、いずれはなくなります。つまり最初から花として存在するものはなく、永遠に花であり続ける存在もないのです。全ては「因」と「縁」により「果」が生起しているのです。

結果だけを見るべきではありませんし、結果だけに捕らわれてはなりません。お釈迦様が最後に言われたように、「善因より善果が、悪因より悪果」が生じるのです。

私はこの因果律の考えにより、このヘルニアは何かの「悪果」かもしれないが、これを「善因」にしようと思いました。そして「少し腰に負担がかかるかも知れないが、早めに復帰して修行期間を延長し、もう一度臘八大接心を経験してから下山することにしよう」と決心しました。

11月1日に佛通寺に戻って境内から山や木々を目にした時には自分でも不思議なくらい「ああ、また修行に戻ってきたんだ」という何とも言えない気持ちの良さと充実を感じました。

そして最後の臘八大接心はとても収穫あるものとなり、これまで学んで来たことをより深く感じることが出来ました。

そして下山する日が近づくにつれて、もう少し僧堂にいればもっといろんなことを深く学べるであろうにという気持ちが強くなってまいりました。しかし家族というしがらみがある以上なかなかそうもゆかないのが現状であります。

 

感激の涙

修行期間中いろんな公案が与えられましたが、その中でもっとも苦労し、なおかつ感激を受けたのが『無門関』という禅書の第二十八則目の「久嚮龍潭」(きゅうきょうりゅうたん)という公案です。

内容は中国の故事で「徳山(とくさん)という修行者が龍潭(りゅうたん)という和尚のところに教えを乞いに行った際、夜遅くなったので帰ることになった。龍潭が徳山に提灯を渡そうとしたその時、龍潭は提灯の明かりを吹き消した。そしてその瞬間徳山は、忽然として悟りを開いた」というものです。この時徳山は何が解ったのかというのが公案の内容です。

私はいくら考えてもさっぱりわからず、朝の独参が憂鬱でなりませんでした。そしてある朝、苦し紛れに適当な答えを申し上げると老師から「馬鹿たれが! ボケッとするな! きのうの提唱はお前のために喋ったんだぞ! やる気がないならトットと帰れ!」と一喝されました。


下山後 作務衣姿にて

 

そしておずおずと老師に三拝した後、帰ろうとしてまだうす暗い外を見たら庭の中に灯篭がぼんやりと見えました。このとき突然"うわぁ~!"と込み上げてきました。

「そうなんだ。そこに自分というものがあるから明るかったり暗かったりするんだ。徳山はローソクが消えた瞬間それが解ったんだ」そして禅堂までの長い廊下を歩きながら、私は涙が出てきました。

その後坐禅をしながら考えました。人間はいつも自分を主体として物事を考えます。だからそこに、執着やつまらないプライドが出てきます。
明と暗、生と死、苦と楽、損と得、愛と憎、…こういった相対的な分別心(ふんべつしん)や執着心が生じてきます。

この執着や分別する心を断ち切ることで、明暗、生死、苦楽、損得を越えた絶対的な心境が体得出来るのです。

自分を意識するから、そこに「賛成」とか「反対」という相対的な感情が出てくるのです。自己を忘れ、相対的な観念を断ち切ることで、本来の自分に近づくことができるのです。そしてそれを極めるとお釈迦様が悟られた、「自他不二」(自己と他は一つである)の絶対的な境地が得られるのです。絶対的なものとは宇宙の真理であり、仏心であり、命の根源です。

そしてこれまで何の意味があるのかと疑問に思っていた、僧堂での「いじめ」や「しごき」に近いような慣習も、自分を捨てさせて分別を無くし、馬鹿になりきらせるための手段だったということが解りました。禅の考えの基本もこの点にあると感じました。

あの瞬間の感激と、これまでの疑問が氷解していった時間を私は生涯忘れることはありません。

 

下山

平成13年12月10日、いよいよ佛通僧堂を下山する日となりました。僧堂では下山することを暫暇(ざんか)といって「暫く暇をいただく」といった言い方をします。

暫暇の際は、最初に掛塔した際と同じく網代笠(あじろがさ)に、脚絆(きゃはん)・草鞋(わらじ)、雲水衣に袈裟文庫という出で立ちになります。そして山門前に衣姿で一列に並んだ老師や雲水達に一礼し、そして山門を出たところで振り返りもう一度一礼して出て行くだけです。ただそれだけで、不要な挨拶や言葉は一切ありません。禅の世界らしく、簡素にして厳粛そのものです。

私は佛通寺の山門を出て初冬の枯葉散る参道を歩きながら約一年間のいろんなことを思い出しておりました。
何も分からずただ辛いだけだった最初の頃、叩かれ・怒鳴られて覚えていった僧堂のしきたり、初めての弁事の嬉しさと娑婆の世界の新鮮さ、必死で取り組んだ公案、感銘を受けた提唱や内講、知り合った雲水や居士の人たち、凍りつく寒さのなか夜坐したこと、夏の汗びっしょりの接心、自然の素晴らしさ偉大さを感じたこと、そして最後にはもう少し残りたい気持ちになったこと。

佛通僧堂は人里離れて豊かな自然の中にあり、修行するにはとても恵まれた環境でした。こうした良い環境の中で、良き老師と巡り会い、良き先輩や後輩達にも恵まれ佛通僧堂で修行出来て良かったなとしみじみ思いました。

僧堂というところは、自分で学ぼうと取り組めば目には見えない何かを必ず得ることが出来るところであります。でもそれは大それたものでも奇蹟的なものでもありません。

小さな日常のことをただ無心にこなしていくうちに、本来の自分へと目覚めていくのが禅の道であるということに気付きました。
今私に「僧堂で何を学んだのか?」と聞かれたら「当たり前のことを、当たり前にすること」と答えるでしょう。

今自分がすべきことを、余分なことは何も考えず、ただひたすらこなしていく、これが人生だと学びました。
過去を悔やんでも、未来を憂いてみてもどうにもなりません。過去の「因」により今の「果」があり、今の「因」により未来の「果」が作られるのです。つまり今しかないのです。

 

白隠禅師の坐禅和讃の冒頭に

衆生本来仏なり    水と氷の如くにて

水を離れて氷無く   衆生の他に仏なし

衆生近きを知らずして 遠く求るはかなさよ

とありますが、この和讃の重みを改めて感じました。
結局求めるものは一番身近な自分自身の中にあるのです。決して遠くにあるものではありません。

「雲水」とは「行雲流水(こううんりゅうすい)」の略であります。

白雲が山の洞穴から悠然と湧き出て流れていくように、水が満ちあふれて川となり元海に流れていくように、自己に執らわれず、自己を忘れて、いつまでもいつまでも無心の境涯で生きてゆきたいものです。

おわり

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