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人生の経営(かさぎ第3号より)

経営とは

私は臨済宗高松寺の副住職(執筆当時・現住職)をさせていただいておりますが、普段は中小企業診断士として活動しております。従って私の名刺には、「高松寺副住職」と「中小企業診断士」と併記されております。中小企業診断士とは一口で言えば経営コンサルタントのことです。
名刺を交わした際よく、「仏教と経営って関係あるんですか?」と聞かれます。私はこういうときは決まって、「『経営』というのは元々仏教用語なんですよ」とお答えすることにしています。

すると相手の方は意外な顔をされます。おそらく「金儲けである会社の経営と仏教とは、相反するものなのでは」と思われてるのだと思います。
経営とは「自分自身をどう生かすか、自分の人生をどう営んでいくか」これが本来の意味なのです。つまり人生経営という意味合いなのです。
それでは自分を生かすとはどういうことか、どういう人生を営むべきなのか。どう生きるべきかということについて、仏教の開祖であるお釈迦さまはどのように言われたのか。
日本は仏教国でありながら、その宗祖たるお釈迦さまの示した真理を殆んどの方がご存知ありません。また禅宗(臨済宗、曹洞宗、黄檗宗など)では「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉があります。これは言葉や文字が不要という意味ではなく、「悟りの内容は文字や言葉で表せれるものではなく、師の心から弟子の心へ直接伝わるものである」という禅の基本的な考えであります。
また僧侶自身も、仏教の教えについて積極的に語ろうとはしないように思えます。これは禅宗に限らずどの宗派にも共通しているように思えます。 

しかし先ず語らなければ一般の人には全く理解することが出来ませんし、理解するチャンスすら与えられないことになります。そして何よりも我々僧侶には、仏教の教義を語り広め、そして伝えていく任務があるのではないかと考えております。現在の仏教はあまりにも葬儀や法要などに重点が置かれているのではという気がしております。
以前オウム真理教に入信していた女性に、なぜお寺が近くにあるのにお寺へ行かなかったのかと質問すると、「お寺は私にとって景色でしかない」という回答が帰ってきたそうです。

 

日本は先進国であり、物質的にはたしかに豊かな国でありますが、これまで物質的なものを追い求めてきたばかりに東洋的な精神的豊かさを見失ったような感があります。
お釈迦さまの説かれた真理を伝え、どう生きるべきだと示されたのかを伝えていくことは重要なことだと思います。
住職とは住持(じゅうじ)職(しょく)の略であり、教えを住(とど)め持(たも)つ職(しょく)という意味だそうです。そしてまた仏教徒である以上は、お釈迦さまの説かれた真理を学び、そして実践していかなければなりません。今回は、お釈迦さまはどういう真理を説かれたのか、どう生きるべきと説かれたのか、そのことについて述べさせていただきたいと思います。 

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高松寺本堂

仏教の説く四つの真理「四法印」

先ほど日本では仏教の説く真理を知る人があまりいないと申し上げましたが、まず仏教の説く真理について説明してみたいと思います。
仏教の真髄を捉えた基本的な教えとして四法印があります。四法印というのは、諸行(しょぎょう)無常(むじょう)、諸法(しょほう)無我(むが)、一切(いっさい)皆(かい)苦(く)、涅槃(ねはん)寂静(じゃくじょう)の四つの法印、つまり真理のことです。この四つの真理が仏教の説く根本的な真理です。それぞれの法印について先ず説明します。

諸行無常(しょぎょうむじょう)

諸行無常といえば、「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり、・・・」という平家物語の有名な一節を思い浮かべられると思います。
文字通り諸行無常とは、「世の中に常なるものはない。全てのものは生成し、変化し、そしていづれは消滅していく」という世の中の真理を現した言葉です。
世の中に変わらないものはありません。瞬間、瞬間に常に変化しております。我々の生活環境、世の中の考え方や価値観、会社の経営環境もすべて刻一刻と変化しております。かたちあるものも、全ては変化し、やがては滅していきます。世の中には常なるものは無いのです。
ここで少し会社経営の話をしてみます。先日亡くなられたアメリカの経営学者ドラッガーの有名な言葉に、「経営とは一言でいうと環境の変化に即応していく技術」というものがあります。
日本の戦後のマーケティングの大きな流れ一つをとってみても、明確に変わっております。
終戦直後のマーケティングは「生産志向」でありました。物が無い時代だったので、宣伝・広告など売ることは考えなくよかったのです。作る事や商品を仕入れることを考えれば成功したのです。
しかし高度成長時代になると「販売志向」の時代と変わっていきます。大きいことは良いことだという言葉に象徴されるように、大量生産・大量販売の時代へと変化していきました。大量に生産・販売していくことにより、より安く効率的なマーケティングを心がける時代へと変わりました。
しかし今はもうそういう時代ではありません。個性とか自分の好みが重要視され、人とは違うもの、私だけのものが欲しがられる時代です。
したがってマーケティングの考え方も、多品種少量、あるいはどのニーズに合わせるのかを考えなくてはならなくなっています。
また消費そのものに対する消費者の考え方も変化してきています。今は健康とか環境、食の安全という考え方がとても重要視されております。例えば終戦直後に闇市で「この商品は環境に悪いから・・・」などという人はいなかったはずです。
ここ何年かの小売業界の動向をみても変化は大きいものがあります。スーパーマーケットよりも価格の安いディスカウントストアが勢力を伸ばした時期がありました。福山でも駅前に出店されて繁盛しておりましたが、もう随分以前に閉店されて今はありません。
これも消費者が安さのみでなく、品揃えや選べることも要求してきたためです。例えばカメラでいえば確かにディスカウントは安かったけれど、一番売れ筋の商品2~3アイテムしか置いてありませんでした。これは商品を絞って大量に仕入れることにより安さを実現していたためです。
そこで登場したのがカテゴリーキラーと呼ばれる商品の種類(カテゴリー)を絞った安売り専門店です。おもちゃの○○、カメラの○○、酒の○○、というお店です。商品カテゴリーを絞り込むことにより、安さを保ちつつ商品も揃えれるわけです。
マーケティング一つとってもわかるように、世の中には変わらないもの、永遠なものは存在しません。永遠に栄えた国も歴史上ありません。
生あるものは必ず死がくる、美しいものは必ず醜くなる、若いものは必ず老いる、これも無常の真理です。
諸行無常、これが仏教の説く絶対的な真理の一つです。
金剛経の有名な一説に、

応(おう)無(む)所(しょう)住(じゅう)而(に)生(しょう)其(ご)心(しん)

応(まさ)に住(じゅう)する所(ところ)無く(な)して而も(しか)其(そ)の心(こころ)を生(しょう)ずべというものがあります。
有名な中国の六祖慧能禅師がこの句によって悟りを開かれたというものであります。
ものごとに対して心を止めることなく、あるがままに自由に処していくという意味です。こころをひとところに止めるとそこに執着が生じ、こころの自由がきかなくなります。こころを一所に止めることなく、こころをはたらかせよということです。これがこの無常なる世の中での、こころの持ちようなのです。執着したり、こだわったりすると、そこから進めなくなります。
また執着や愛着、こだわりから苦が生じてくるのです。


仏教では「愛」という言葉を良い意味に捉えておりません。渇愛とか愛着、愛欲、愛別など、全て否定的な意味をもっております。愛は憎しみと背中合わせであり、愛が深ければ深いほど憎しみの可能性も大きくなるとされています。

お釈迦さまの時代、舎衛城に住む男性の愛らしい息子さんが亡くなりました。お釈迦さまが男性に「あなたの苦しんでいる理由は何ですか?」と訊ねました。父親はいかにその息子を好きだったかを説明しました。
するとお釈迦さまは「生まれた者は誰でも死ぬことをあなたは知っている。我が子だけ死なないと思っているわけではない。この世でも無数の子供が死んでいく。しかしあなたはちっとも悲しくない。あなたは今大きなダメージを受けている。何故か?それはあなたの心に“好き”という感情があるからだ。“好き”という感情があなたを際限なく悩ませている。その感情をなくしたら、再び心の安らぎを得ることが出来る」と言われました。するとその男性は感情を断って預流果の悟りを得たそうです。
沢庵禅師は『不動智神妙録』のなかで「花紅葉をみる心は生じながら、そこに止まらぬを詮(詮じつめた所)と致し候。見るとも聞くとも、一所に心を止めぬを至極とする事にて候。」と無住の肝要を説いております。
一度の成功体験にこだわり、同じことを繰り返し、変化する努力を怠ると「驕れる平氏久しからず」となってしまうのです。
諸行無常の世の中、こころをひとところに止めることなく、自由な境地を得て、変化を感じつつ生きていくことが仏教の説く智慧なのです。

諸法無我(しょほうむが)

それではなぜ諸行無常なのか? 

それは諸法無我だからです。諸法無我とは「永遠不滅の本体、実体というものはない」という仏教の説く真理です。人間でも動物でも、植物でも命あるものは必ず最後があります。車でも建物でも道路でも永遠に存在するものはありません。海も山も河も同じです。何億年、何十億年という単位で考えれば、永遠であるものなどこの世には存在しません。
世界で一番高いエベレスト山の頂上付近から貝の化石がでるそうです。つまり昔は海だったわけです。地球だって五十億年後には膨張した太陽(赤色巨星)に呑みこまれて滅びるそうです。またその太陽もその後燃え尽きて最後を迎えます。
宇宙だってそうです。いまは膨張していると言われております。このまま膨張し続けるか、ある時期から収縮するかはわかってないそうですが、もし膨張し続けたとしても最後はすごく希薄で何も存在し得ない世界となり、収縮するとすればビッグバン以前の状態に戻ってしまいます。

つまりこの世には永遠に存在する実体というものは何一つないのです。それでは今存在しているものは何なのでしょうか?
それは因と縁によってつくられた果なのです。お釈迦さまは、この世のものは全て因と縁により作られると説かれました。
花で例えると、種を撒くという因があり、太陽の光とか水・栄養分という縁があって、花が咲くという果があるのです。最初から花であるというものはなく、また永遠に花であり続ける存在もないのです。つまり花という実体はないのです。
諸行無常で花が散っても、また新たな因と縁により花が咲きます。何の因縁でというのは何の因と縁でという意味ですし、因があり果があるから因果(いんが)なのです。
とかく我々は果にしか目がいきません。しかしこそには必ず、因と縁があるのです。過去の因と縁により現在の果があり、今の因と縁が未来の果を作り出すのです。
因果の法則は完璧に働くと言われます。物だけではありません。身に起こることも全て因果の法則によるものなのです。
ですから自分の身に何か悪いことが起こったら、それは自分が以前に蒔いた悪い種が原因なのです。仏教ではこの種のことを、カルマとか業(ごう)と言います。何か災難に遭うということは、自分の以前に蒔いた悪いカルマを刈り取るチャンスだと思うべきなのです。
この世で蒔いたカルマなのか、前世で蒔いたカルマなのか人間には判りません。しかし因果の法則からして、自分に原因があることには間違いないのです。


ですから決して災難や困難から逃げてはなりません。逃げたらまた刈り取らなければならないことになります。「何で私がこんな目に・・・」などと愚痴ってもなりません。
仏教では貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)のことを三毒といい、人間の成長を妨げ、人間本来の善根に対して最も害を及ぼす感情であるとされています。
貪は貪欲のことであり、むさぼる心のことです。むさぼりの心に処するには、知足(ちそく=足るを知る)の智慧が必要です。いくら物があっても、足ることを知らなければ不足と感じます。
電車が満員で座れなかっても、「満員なのに乗れてよかった」と思うことです。ご飯がおにぎり一つだけでも、「食べれて良かった」、「ダイエットになって良かった」と思うことです。不満や貪欲のこころで物事を観てはなりません。どんな奇麗な花でも、裏から見ればたいしたことはないのです。

お釈迦さまの言葉がたくさん収められているといわれている『法句経』のなかに、「知足は第一の富なり」とあります。知足の境涯で、「心富む」人生を送りたいものです。
瞋は怒りのことです。怒りとは醜く破壊的な感情です。怒りの原因は自我意識にあるといわれています。「私が」という意識が強いと、常に原因を外に向けて他人を批判したり、環境に対しても文句を言うようになります。人間としての成長もなく、いつも怒りを感じて普通の何倍も苦しみに陥らなければなりません。瞋を押さえるには、原因を内に向ける智慧が必要です。
痴とは愚痴のことです。自我が強く、知足の智慧がないと愚痴の心が出てきます。また、因果の法則を理解すれば、全ては自分が蒔いた種なのですから愚痴など出てまいりません。
諸行は無常であり、諸法は無我であることをしっかりと理解し、因果の智慧を身につけると愚痴の心、怒りの心、貪る心は消えるはずなのです。

一切皆苦(いっさいかいく)

三つ目の真理が一切皆苦です。仏教の教えに四諦説とか縁起説というものがありますが、すべて現実が苦であるということから出発しています。
お釈迦さまも「人間とはなぜ老いて、病気になり、そして死んでいくのか。なぜこのような世の中に生まれてくるのであろうか」との疑問を抱いたのが城を出て出家するきっかけでした。この生老病死(しょうろうびょうし)を四苦といいます。
この他にも「愛する人と別れなければならない苦しみ」(愛別離苦 あいべつりく)、「憎い人と会わなければならない苦しみ」(怨憎会苦 おんぞうえく)、「欲しいものが得られない苦しみ」(求不得苦 ぐふとっく)、「自己に執着することから生ずる苦しみ」(五取薀苦 ごしゅうんく)の四つの苦を加えて合計八つの苦しみがあるとされています。
「四苦八苦する」という言葉はここからきています。ただ皆さん、「生きることは苦である」ということが真理だとしたら何だか嫌な気になりませんか? 私も最初はそう思いました。じゃあ何で人間は生まれてくるのだろうかと。
四諦説(したいせつ)という教えでは、苦の原因を渇愛(かつあい)だとしています。喉が渇いた人が水を求めるような烈しい欲望のことです。そしてその根本的原因は無明だとしています。

無明とは無知であるということです。つまり諸行無常とか諸法無我、因果律などの真理を悟っていないからだということです。
だから渇愛が生じ、貪・瞋・痴の心が生じるということなのです。
お釈迦さまは輪廻から解脱することが人間の究極の目標だと言われました。つまりこの世の中は課題を持った人が生まれてきており、修行して、本来の自分を向上させ、そしてまた帰っていくんだと。そのための人生なんだと。自分が高められて課題がなくなれば、輪廻することもなくなるのです。
修行の場であれば苦しいことがあるのも当然です。人生とは楽しいか苦しいかの問題ではなく、一番のポイントは自分がいかに自己成長するかにあるのです。

だから困難なことがあったら、逃げたり、不平を言ったりすることなく、ありのままを正しく受け入れなければならないのです。禅の言葉で、正受(しょうじゅ)という言葉があります。厳しい現実にも目をそむけず、がっちりと取り組んでいかなければなりません。
病気や災害など試練に遭遇したならば、逆に自分が成長したり、業を刈り取るチャンスが与えられているのです。
良寛和尚が、災害で全財産を失った友人に宛てた手紙に次のように記されていたそうです

災難にあう時節には、災難に遭うがよろしく候

それが災難から逃れる妙薬にて候
大愚 良寛

最近勝ち組とか負け組みという言葉をよく聞きます。あまり好きな言葉ではないのですが、ここでいう勝ち組とは、一般的な損得勘定からいうと収入の高い人、地位の高い人のことを指します。
しかし人生の根本的目的から考えるとこれは全く間違っているのです。人生においては、どれだけ自己成長出来たかが最も重要なことなのです。  お金や物はあの世には持っていけません。本当の自分しか帰れないのです。
であれば本当の自分をこの世で成長させた人が、本当の意味での勝ち組ということになるのです。いくら財産を築いても、人間として成長していなければ、成功者とは呼べません。また逆に、いくら貧しくても、人間として成長していれば成功者なのです。これが人生の損得勘定なのです。
以前佛通寺の管長猊下晋山式(かんちょうげいかしんさんしき=管長就任式)が三原であったとき、私は京都のある僧堂の隠侍(いんじ=老師のお世話をする雲水(修行僧))と同じテーブルになりました。
学校を出てからすぐに僧堂に入り、もう十年になると話していました。とてもハキハキとして元気の良い雲水でした。後で聞いたのですが、その雲水は東大の大学院を卒業しているのだそうです。

世間一般の考えだと、「東大の大学院まで出てもったいない。良いとこへ就職も出来ただろうに」とか、「人生の最も楽しい時期に、十年間も僧堂で修行するなんて」ということになるでしょう。
しかし先ほど申し上げた人生の損得勘定からみるとどうでしょう。人生一番の目的に向かって、まっしぐらに進んでいるということになります。世俗的な欲求を超越し、無上の安穏たる安らぎを求めているということになります。
もちろん出家して僧堂に入ることだけが修行ではありません。一切皆苦なのですから、この世に生きるということ自体が修行になるのです。
だから試練や困難があった場合は、正面からがっちりと受け止め、「成長するチャンスをありがとう」という気持ちで対処すべきなのです。

幸せな人生とは、決して安楽の連続ではないのです。『スッタニパータ』(中村 元訳)というインドの最も古い時代の経典からお釈迦さまの言葉を紹介します。

他の人々が「安楽」であると称するものを、
諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。
他の人々が「苦しみ」であると称するものを、
諸々の聖者は「安楽」であると知る。
解し難き真理を見よ。
無知なる人々はここに迷っている。
(スッタニパータ 762)

皆さん、「ツキを呼び込む魔法の言葉」というのを聞かれたことがありますか?
これは五日市さんという人が実際に体験されたことだそうです。五日市さんはある体験をきっかけに「オレってどうしてこんなに運が良いんだろう」というくらい、ツキまくる人生を送っているそうです。
そのきっかけは学生時代にイスラエルで遭難しかけた際、不思議なお婆さんに助けられたことからだそうです。そのお婆さんが、「ツキというものは実は簡単に手に入るものなの。ツキを呼び込む魔法の言葉があるの。それは二つあって、一つは『ありがとう』。もう一つは『感謝します』なの」と言ったそうです。
「使い分けはね、嫌なことがあったら『ありがとう』、良いことがあったら『感謝します』。何度も何度も繰り返して言うのよ。そしたら絶対にツイてくるわ。本当よ。」
「それとね。ツキが無くなる言葉もあるの。人の悪口や不平不満。それと『くそったれ』とか汚い言葉。」と言われたそうです。
五日市さんは帰国後に言われたことを徹底して実行し、「車をぶつけられた時も、『ありがとう』という言葉が自然に出たそうです。そうすると不思議なほどに、ツキに恵まれてきたそうです。

またお婆さんはこうも言ったそうです。「人に嫌なことを言われて落ち込むなんて、意味がない。だって、自分がそう言わせているんだから、自分の魂の成長のために。でも、そんなことは知らないから、その人を恨んだり、仕返しをしようとしたりする。だから、自然に逆らおうとすればするほどツキに見放され、何もうまくいかなくなってしまうのよ」
『ありがとう』は難が有るとも書きます。不思議ですね。
仏教の説く一切皆苦と因果律の真理、自己完成と三毒(貪・瞋・痴)との関係で参考になればとこの話を紹介致しました。
こまったときには『ありがとう』。皆さんも是非実行してみてください。もちろん私も実行しております。お釈迦さまの説かれた智慧でもあるのですから。

涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)

最後の四つ目の真理が涅槃寂静です。よく涅槃の境地といわれますが、涅槃とは「煩悩の火が吹き消され寂滅し、心が静まり、そして訪れる心の静溢(せいいつ)なる境地」のことです。つまり悟りの世界のことです。
お釈迦さまはこの悟りに至る方法として、八つの正しい道を示されました。これを八正道(はっしょうどう)といいます。つまりこの八つの道を実践していくことが、涅槃の境地(悟りへの道)へとつながるのです。
仏教では「○○を信じなさい」とか「○○は絶対である」ということは一切言いません。お釈迦さまは世の中の真理を説き、そしてその真理のなかでどう生きるべきかという生き方を説かれたのです。
その真理が四法印なのです。そしてその生き方というのが、八正道なのです。次にお釈迦さまの説かれた、八つの悟りに至る道について説明してみます。

八正道(はっしょうどう)

八正道とは、①正(しょう)見(けん)、②正思(しょうし)、③正語(しょうご)、④正業(しょうぎょう)、⑤正(しょう)命(みょう)、⑥正精進(しょうしょうじん)、⑦正念(しょうねん)、⑧正定(しょうじょう)の八つです。

①正見(しょうけん)

正見とは正しくものを見るということです。つまり偏見なく固定観念なく、自己を驕りなく正しく見定めるということです。
この八正道の第一である正見によって、苦の支配する現実も、その根本的原因が無明(むみょう=無知であること)であることも自ずと知れてくるといわれています。
人間には自我というものがあります。だから執着が生まれ、ものごとを正しく見ることが出来なくなるのです。しかし完全に自我を捨て去るということは難しいというか、不可能に近いものがあります。お釈迦さまのように完全に悟りを開くということはなかなか出来るものではありません。
お釈迦さまの時代にこんなエピソードがありました。インドのコーサラ国にマリカ婦人という王妃がおりました。夫であるパヒナディー国王と共に、とても熱心な仏教信者でした。      
あるときマリカ婦人が国王に言いました。「お釈迦さまは自分を考えることをやめなさい、自我を捨てなさいといわれます。でもいくら考えても私は自分が一番可愛いのです」
すると国王は自分も実はそうなんだと言いました。そこで二人は祇園精舎のお釈迦さまのところまで行き、このことを話しました。
するとお釈迦さまはこう言われました。「そうなんだよマリカ。人間はみんな自分が一番可愛いんだ。それが分かったなら、他人も自分が可愛いということに気付かなければならない」
自分が可愛かったなら、他人もまた自分が可愛いと思っている。自分の子供が可愛ければ、他人の子についてもその子を可愛いと思っている親がいるということです。相手を思いやるこころについてお釈迦さまはこう言われたのです。
この考えが、次の正思へとつながります。

②正思(しょうし)
正思とは、「自己中心でなく、相手の立場に立った思い」です。自分も大切、他人も大切ということです。正思を実行するとき、貪・瞋・痴の三毒は消えます。つまり苦は除かれるのです。
本当に相手の立場に立ったとき、怒りが起こるはずがありません。「私は正しい」、「私のせいではない」と他人の欠点や批判ばかりしていると、怒りや愚痴の心が起きてくるのです。「私は正しい」という前提で原因を外にばかり向けると、人間関係も楽しくありません。互いに原因を外に向けると、争いが起こらないほうが不思議です。
人間として何の成長もなく、怒りや愚痴により何倍もの悩みや苦しみに陥って生きていくことになります。
法句経からお釈迦さまのお言葉を紹介します

 瞋を捨て 慢を離し すべての絆超えよかし
心と物に無執着 無一物者を 苦は追わず
(法句経 221)

このように正しく思うことは、苦から逃れる道なのですが、と同時に自分が幸せになる道、成功への道でもあるのです。
ビジネスだってそうです。常にお客様の立場で考える人が成功するのです。自分のお客様はどのような人なのか、何を望んでいるのか、自分は何が出来るのか、どうしたらもっと喜んでもらえるのかと常に相手の立場になって考えている人が成功するのです。
私はこれまでの診断士としての経験のなかで、同じ事業をしている人でも、成功している人、うまくいってない人をいろいろみてまいりました。

そして成功者の共通点は
①「常にお客様に喜ばれることを考えている」
②「勉強熱心である」
③「自分の願いと目標を明確に持っている」、
④「決断力がある」
⑤「自分の仕事を語るとき楽しそう」
だと感じております。

そして成功しない人はこの逆なのです。ある不況業種の研修会で中四国地方を講師をして廻ったことがあります。これからの取組み方を説明したり、成功事例を紹介しました。しかし多くの人は残念ながら、出来ない理由を挙げるだけなのです。これから何をすべきか、自分で考えようともせず、「簡単に成功出来るものを紹介してくれるならやってもいい」という感じです。将来的に、良い方向に進まないはずです。
がこうしたなか、少数の有志が集まって成功した例もありました。自分達のお客様はどんな人達で、何を望んでいるのか。そこから徹底的に議論しました。そして自分達独自のルートで新規取扱商品を開発しました。結構な数が売れ、固定客の確保につながりました。現在も売上増加中です。

このように相手のことを考え、自分に何が出来るのかを考え、そして労力を積み重ねて、初めて成功への道は開けるのです。簡単に真似の出来る例など絶対に存在しないのです。
「成功に秘訣があるとすれば、他人の立場からものごとを視ることの出来る能力である」とはアメリカの自動車王ヘンリー・フォードの言葉です。正しい思いをもち、他人に施しをするということは、自分も幸せになるということなのです。
それは商売に限った話ではありません。お金や、物に限ったことでもありません。
和顔施(わがんせ)という言葉があります。相手に何も与えるものがなくてもにこやかな笑顔で挨拶することも立派な施しです。

bou047円形吹き出し: ありがとう!
和顔施

  「おはようございます」、「お疲れさん」、「ありがとう」、こんな言葉を笑顔で言われると嬉しいものです。
相手を思いやる気持をもち、相手にその思いを施しましょう。そうすることによって必ず廻りまわって自分に帰ってきます。
何故なら、それがお釈迦さまの説かれた「因果の法則」だからです。

③正語(しょうご)

三つ目が正語です。これは「相手の気持ちをくんだ正しい言葉使い。ウソ・悪口・不平不満を言わない」ということです。古来日本では、言霊(ことだま)といいまして、言葉には不思議な霊威が宿っているといわれてきました。
だからイスラエルのお婆さんも言ったように、汚い言葉やマイナスの言葉、不平不満の言葉ばかり言う人は結局自分でそういう人生を歩んでいくのです。

常にプラスの言葉を出しましょう。「忙しい」のではなく、「充実している」「お役に立っている」、「成長している」のです。「困ったなあ」ではなく、「ありがとうございます。やります」なのです。
お釈迦さまの説かれた「自己成長」という人生の真の目的を理解したら、不平不満やマイナスの言葉は出ないのです。常にプラスの思いを持ち、正しい言葉を使いましょう。

あるバラモン(インドの修行僧)がお釈迦様の目の前で、お釈迦さまを口汚く罵ったことがありました。お釈迦さまは平静でした。するとそのバラモンは疲れきって、ぐったりとなりました。
お釈迦さまは「あなたが誰かに贈り物をし、相手が受取らなかったら、その贈り物は誰のものか?」バラモンは「当然私の物です」
お釈迦さまは「同様に私はあなたの吐いた汚い言葉を受取らない。汚い言葉は当然あなたのところに戻る」と言われました。

水を使った言霊の実験をご存知でしょうか?水を入れた二つのコップに一つは「ありがとう」、もう一つは「ばかやろう」という言葉を貼り付けます。そして水を氷らせて顕微鏡で水の結晶を観測するのです。すると水の結晶に驚くほどの差が出ます。
「ありがとう」という言葉をはりつけると雪の結晶のような透明なとても美しい結晶ができあがります。一方「ばかやろう」という言葉をはりつけた水はドロドロとして結晶も出来ない状態になります。つまり古来から言われているように、言葉には言霊という霊威が宿っているということなのです。
いろいろな言葉で実験すると、「ありがとう」が一番奇麗な結晶になるそうです。「死ね」とか「むかつく」などという言葉をはりつけるとぞっとするような形になります。(『水は語る』江本勝・講談社参照)

人間の身体の約70%は血液や体液などの水分で出来ています。正しい言葉を発することがいかに大切か、考えさせられます。またお釈迦さまが実践されたように、悪い言葉を受取ったり、投げ返したりしないこともとても大切なことなのです。

④正業(しょうぎょう)

正業とは正しい行いをすること、つまり「悪業、不正をしない」ということです。
涅槃経というお経のなかに、「善因より善果を生じ、悪因より悪果を生ずることを知りて、悪のの因を遠離せよ」という言葉があります。
良い行動をすれば良い結果が生じ、悪い行いをすれば悪い結果が生じる」ということです。そして「悪の因を遠離せよ」と続きます。お釈迦さまは「究極の目標は輪廻からの解脱」であると説かれました。だから先ずカルマを刈り取ること、つまり悪行をしないことが重要なのです。
人間は本能的に何が悪い行いなのか、何がよい行いなのかを知っています。しかしそこに自我の意識が入るので、知っていてもすんなりと行うことが出来なくなるのです。ついつい目先の利益や、自分の好き嫌いなどで判断してしまいます。

経営理念と会社成長率との不思議な関係

もっと高所大所から判断しなければなりません。つまり人類が存在する意味、自分が生まれてきた理由、そして仏教が説く宇宙法則を考えればどのように行動すべきかがみえてきます。
自分の欲を満たすのではなく人類全体のためにあるいは社会全体のためにという「大欲」、そして目先の損得ではなく自己を高めるという人生の損得勘定をもって望む必要があります。それが結果として、成功にもつながるようです。
ここに興味あるデータがあります。「経営理念」と「会社の成長」の相関関係に関するものです。「経営理念」とは、経営者がその企業の信条や指導指針を短い文章などで発信するものです。
この「経営理念」の内容を自社の顧客や社員、株主、自社自身など利害関係者を重視するものと、世の中の発展進歩とか地球環境など社会貢献を重視する内容のものとに分けてみました。

 第2-1-28図 中小企業の経営理念~利害関係者を重視した経営を目指す姿が顕著~
経営理念の内容と割合

するとどの企業規模においても、社会貢献を重視する経営理念を持つ企業のほうが、利害関係者
を重視する経営理念を持つ企業よりも、会社の成長率(ここでは従業員増加率)が明らかに高かったというものです。(図左)
仏教では利他という言葉があります。自分を利するよりも他人を利するという意味です。自分の家族を利するよりも、地域社会や国家、世界、人類を利するというように、公益を図っていくほうが、結果として自分にもたらす利も大きいようです。これは会社経営でも人生でも同じことです。
「運命というものはあるのですか」と聞かれることがあります。たしかに天から与えられた運命はあります。しかし運命は人為で変えられない不動のものではないのです。
運命が不動のものであれば、世の中おかしくなってしまいます。どういう行いをしても、結果は決まっているということになります。しかし世の中にはもう一つの宇宙法則、「因果の法則」があるのです。利他行を積んでいけば、人生は運命を超えて素晴らしい方向へ変わっていくのです。だから正業なのです。

⑤正命(しょうみょう)

正命とは、「正しい日常生活を送る」という意味です。先の正思、正語、正業を守り、日常的に正しく振舞う生活を送るということです。
それでは正しい生活を送らないとどうなるのか?

仏教では「身口意の三業(しんくいのさんごう)」という言葉があります。ここでいう業とはカルマという意味です。つまり、「正しくない行為や言葉、思いは悪い業を作りますよ」という意味です。
ここで気を付けなければならないのが思いです。相手を手で殴ったり、口で罵ったりすることは行為ですし、法律的にも処分されます。しかし心の中で思うことは表面には出ませんし、相手に直接的に迷惑をかける訳でもなく、法律的にも罰せられることはありません。
それでは何故悪い思いが業を作るのか? お釈迦さまは法句経のなかで次のように言われています。

思いは全てに先立ち、全ては思いにより成る

 思いこそは全てを支配する

 けがれたる思いにて、語り、行動すれば

 引くものの跡を車輪が追っていくように

 苦しみが後からついてくる。

               (法句経 1)

 つまり、先ず思いが始めにあるということなのです。普段「あいつが憎い。嫌いだ」と思っていると、それが何かの時に口や行いに出るということなのです。だから思っているだけならどうってことないということにはならないのです。
因果の法則でいうと、思いが因であり、何かの縁にふれて、身や口という果につながるのです。つまり悪い思いを持つと、悪い因を心の中に作ることになるのです。
そしてまた、日ごろの心の思いは、その人の顔の表情をも作っていくのです。
私たちの心は一定ではありません。仏教では十界といって、一人の人間の心のなかに十の世界があるとされております。仏(ぶつ)・菩薩(ぼさつ)・縁(えん)覚(がく)・声聞(しょうもん)・天上(てんじょう)・人間(にんげん)・修羅(しゅら)・畜生(ちくしょう)・餓鬼(がき)・地獄(じごく) です。
どんな悪人でも仏心を具有しておりますし、どんな善人でも幾分かの悪心は持っているのです。あいつが憎いとか殴ってやりたいと思う時は、闘争を好む修羅の世界に心は同調しているのです。貪りの心が起こった時には、畜生の世界に心は同調しているのです。
昨年広島で、痛ましい小学生殺人事件がありました。犯人は「悪魔が入ってきて、自分に殺人をさせた」と言いました。あたかも悪魔のせいであり、自分とは別の人格だという言い方です。しかし悪魔は自分の中にいるのです。そして自分の心が悪魔の世界と同調したのです。しかしまた、犯人の心のどこかには仏様もいるはずなのです。
心は瞬間、瞬間に変化していきます。瞬間、瞬間に変化する心を正しく保ち、正しい日常生活を送ること、それが正命なのです。
⑥正精進(しょうしょうじん)
正命を理解していても、実行に移さなければ全く意味がありません。煩悩無尽と言われますが、何かと放逸に流されそうになる弱い人間にとっては実行に移していくことが重要です。だから正しく精進していくことが重要なのです。
八正道の本義は実践していくことにあります。したがって⑥正精進は①正見から⑤正命までの五項目を補完する重要な項目となるのです。

 お釈迦さまは法句経五一で「美しくてあでやかな花でも、香りのないものがあるように、よく説かれたことばも実践しない人には実りをもたらさない」と言われております。そしてお釈迦さまの入滅される最後のお言葉は

さあ修行僧たちよ、お前たちに告げよう
諸々の事象は過ぎ去るものである(諸行無常)
怠ることなく精進せよ
(大パリニッバーナ経 6)

というものでした。
人間の最後の言葉はとても重い意味を持つ場合があります。ましてやお釈迦さまのように、完全なる悟りを開かれた人の場合は特別です。怠ることなく精進するということは、まさにお釈迦さまの生きざまだったのだと思います。
お釈迦さまの説かれたテーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)の布教活動を日本でされている、日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老が次のようなことを言われております。
「お釈迦さまは完全たる解脱を得ているからもう何も要らないのです。我々が供養しようとしても、『私は完全に幸せになっているから、何も要りません。ただ、あなたは善い人間になって下さい。あなたは立派な人間になって下さい。それで私は充分です』と言われます。
神様を信じている人々は、神様のために生きて、神様のために命まで捨てたりして、すごく犠牲になるのです。仏教の場合は全く逆なのです。お釈迦さまは何もいらない。『自分が善い人間になろう、これはお釈迦さまの言われたことではないか』と我々が頑張れば、お釈迦さまに対するこの上ない供養になるのです」と。
仏教徒である以上、お釈迦さまの説かれた真理を学び、実践していかなければなりません。そして仏教の教えを実践していくうえで土台となるのか「慈悲の心」です。
さきほど仏教では愛という言葉を否定的に解釈するといいました。インド哲学の世界的権威であった中村元氏(故人)は「仏教においては人へのやさしさを意味する愛は、「慈悲」という語が相当する」と説かれました。さきほどのスマラサーナ長老も慈悲を実践していくことが仏教であると言われております。
慈とは他人に楽しみを与えることであり、悲とは他人の苦しみを除き去るということです。

日常のなかで実践できるものとして「慈悲の瞑想」というものがあります。まず「自分自身が幸せでありたい」ということを確認します。これは誰でも出来ると思います。そして次に「自分だけが幸せでいられるはずがない」という当たり前の事実に気付くのです。自分の幸せは、周りの人びとの幸せがあってこそ成り立つのです。
慈悲の瞑想とはどんなときにも心のなかで、「すべての生命が幸福でありますように」と念じていくものなのです。
私も毎朝お経を読んだときに実行しているのですが、
①自分が幸せでありますように
②私の家族が幸せでありますように
③生きとし生けるもの一切が幸せでありますように
④私の嫌いな人が幸せになりますように
⑤私を嫌いな人が幸せになりますように
と祈るのです。

こうすることで、他人にたいする心の視野が広くなり、自我中心の心が徐々に慈しみの心に変わっていくというものです。
なかには「自分の嫌いな人が幸せになることなんて、とても願えない。私の嫌いな相手はそんな生易しい相手ではない」という人もきっといると思います。そういう場合には「いつか自分の嫌いな人の幸せを願える自分になれますように」と祈るだけでもいいそうです。
仏教徒はお釈迦さまの教えを知り、そして実践していかなければなりません。しかしそのことは、自分を幸せにし、周りの人も幸せにし、ひいては全人類の幸せになっていくことなのです。
そしてそのような世の中にしていくことが、大恩教主釈迦牟尼世尊(お釈迦さまを拝むときの呼び名)に対する何よりのご供養にもなるのです。

仏の教えを喜び、慈しみに住する修行僧は
一切の現象が鎮まることから生まれる
涅槃に到達するであろう。
(法句経 368)

⑦正念(しょうねん)

七つ目が正念です。正念とは「正しい気付き」という意味です。日本では念と訳されていますが、パーリ語(古代インド語)のSATI(サティ)は普通日本語に訳すと「気付くこと」だそうです。

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春の施餓鬼法要(高松寺)

したがって言葉の意味とすれば正しい気付きとなるのです。
般若心経のなかで眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)という文言があります。我々は見たり、聞いたりしたことを常に主観的に捉え、そして欲や怒りや執着の感情で捉え、煩悩や妄想をしているのです。
禅では莫妄想(まくもうそう)という言葉があります。これは妄想することなかれという意味です。本来純真な心が、執着や我によって曇って汚されているのです。
別の角度から説明してみましょう。禅の世界ではこころの奥底に「本当の自分」がいると言われております。本来の面目(めんもく)とか眞我(しんが)、或いは無位の真人(むいのしんじん)などとも表現されております。
この「本当の自分」は全知全能であり、すごいパワーを持つと言われています。宇宙の真理を理解し、純粋で、仏様そのもののような存在です。 
日本の歴史上最も優れた禅僧の一人と言われている白隠禅師が言われた「衆生本来仏なり」も正にこのことであります。
禅の世界ではこの「本当の自分」にすこしでも触れると悟りが開かれるといわれております。そしてこの本等の自分に完全に一致されたのがお釈迦様であります。

 

それでは心の奥底にあるこの「本当の自分」に何故触れることが出来ないのか? それは人間のこころの中に、「我」とか「執着」とか「分別」のような曇ったこころがあるからです。
「我」とは自分を意識するこころ、「分別」とは、好き・嫌い、損・特、憎い・可愛いなどと区別するこころです。「執着」とはものごとへのこだわりのこころです。先のマリカ王妃の例ではありませんが、人間なかなかこの「我」への執着を完全に捨てきれるものではないのです。勿論、私だってそうです。
それではこころの奥底にある「本当の自分」は何を望んでいるのでしょうか? 有名なエピソードがあるのでご紹介します。 稀代の名僧と言われた山田無文老師(元妙心寺派管長・故人)のお話です。
あるとき老師が京都駅で電車を待っておりました。すると青年が迫ってきて真剣な顔で「僕って何ですが?」と尋ねました。すると老師はこう答えました。「そうだなあ。一番身近にあって、一番分かりにくいのが自分なんだ。時間がないから結論だけ言おう。今から自分のことは勘定に入れないで、誰かのために自分を捧げて生きてごらん。そして他人のために働いて、良かったな、幸せだなと思う自分が分かったなら、それが本当の自分なんだ」
つまり「本当の自分」は、人のために役立ちたい、よろこんでもらいたいと思っているのです。そしてそのことに幸せを感じることによって、成長したいと思っているのです。目先の小さな損得や、自分のこだわりや、好き嫌いなど全く考えていないのです。
しかし人間はついつい我を意識してしまうので、損得や分別、執着の心が起こってしまい「本当の自分」の思いに気が付かないのです。
不思議なことに、自分を意識せず「人の役に立ちたい。社会に貢献したい」と心から思うと、何事も成功するものなのです。人の役に立ち、社会に貢献することに喜びや充実感を感じたら、そこに人間的成長もあります。
人間は本来仕事が好きなのです。お客様に感謝されたり、難しい仕事を達成したり、以前出来なかったことが出来るようになったりした時に、お客様の喜びを自分の喜びと感じる自分や成長した自分を喜ぶ自分がいたら、それが「本当の自分」なのです。
仕事が面白くないというのは、仕事そのものではなくて、仕事の環境や条件の問題なのです。
それは人間関係であったり、能力が生かせないとか、評価されないとか、うまく進行しないとかいうことです。決して仕事そのものが嫌いなわけではないのです。
「本当の自分」が望んでいる、世のため人のためということを常に念じてください。必ず良い方向に進展します。「気付くこと」を「念」と訳したのもこのためかもしれません。
よく「正念場」という言葉を使いますね。ここぞという局面においては、やはり世のため人のために良かれという強い気持ちで臨むことが必要なのです。

⑧正定(しょうじょう)

涅槃に至る道、八正道の最後は正定です。正定とは「正しい精神統一を図る」という意味です。精神統一といえば坐禅などの瞑想が先ず思い出されます。
お釈迦さまは二九歳で、王子の身分と妻子を捨てて出家されました。そしてそれから六年間、今では考えられないようなとても厳しい修行をされました。後にも先にも、これほど厳しい修行をした人はいないとまでいわれております。
しかしお釈迦さまは、偏りすぎた苦行では悟りは得られないということがわかると、これまでの苦行をあっさりと止めました。これは執着を持つ人間にとって、なかなか出来ないすごいことだと思います。
そしてネーランジャー河の水で苦行にて汚れた身体の垢を洗い落とし、スジャータという村娘の捧げる乳粥を飲んで痩せこけていた身体を癒しました。ちなみにミルクでスジャータという商品がありますが、この話からネーミングされています。
そのあと菩提樹の大木を背に瞑想に入られました。そして七日目の朝、暁の明星(あかつきのみょうじょう=明け方の金星)をみて大悟されたのです。

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かさぎふれあい観音

 

 華厳経によりますとお釈迦様はこのときこう言われたそうです。
「不思議だ、不思議だ。世の中のものは全て仏の相を備えている。しかし一般の者には、分別や執着のこころがあるから見えない」
正念のところで説明しましたが、分別や執着や我のこころを全く無くし、本来の自分に完全に一致されたのです。そして明星をみて、「明星も私も同じだ。全てのものは仏であり、自分と一体なのだ」と悟りを開かれたのです。
自他不二といいますが、自分も他も全く同じですから損・得、好き・嫌い、可愛い・憎いなどの分別の心が生じません。
我が全くありませんから、執着するものは全くありません。執着しないと、こころが自由です。我とか私という思いが、執着するこころを生み出し、執着するこころから苦が生じるのです。
私のものなのに、私がしたのに、私の方が偉いのに、私の方が・・・、何で私が・・・
要らぬことばかり考えるのが人間なのです。
次のような禅の句があります

 寒(かん)蝉(せん)枯木(こぼく)を抱(いだ)き、泣き尽くして頭(こうべ)を廻(めぐら)さず

 これは涼しくなりかけた時期に生まれた蝉(せみ)が、枯れ木を抱いて一所懸命に泣いている姿を現したものです。
人間ならこういくでしょうか? 我とか私というこころのある人間なら、
「何でオレはこんな時期に生まれなきゃならないんだ。少し前に生まれたやつらは良いことしやがったなあ」
「何で枯れ木なんだ。もっと良い木はないのか」
「何で七年も土の中で苦労して、たった二週間しか飛べないんだ」
「もういい! オレは泣かない。条件が悪すぎる」
ということになり、きりがなくなってしまいます。
しかしこれが自我というこころをもった、人間の愚かな一面なのです。
禅宗では「今を生きる」という言葉をよく使います。過去をいくら悔やんでも現状は変わりません。過去の因や縁があって、現在の果があるのです。未来をいくら心配しても、今良い因や縁を作らなければ未来に良い果は生まれません。だから大切なのは今なのです。今しかないのです。この蝉のように与えられた今をひたすらに生きるしかないのです。

何をよりどころとするか
以上仏教の説く宇宙の根本真理である四法印とお釈迦さまが涅槃に至る道として示された八正道について説明してまいりました。そしてそこには「因果の法則」という絶対的な法則があることも説明いたしました。これが仏教の説くこの世の真理なのです。
「ここの本尊さんはどういうご利益があるのですか?」と聞かれることがあります。私が佛通寺で修行していたときもよく同じことを聞かれました。そのときは「禅宗では、ご利益信仰という考えはないんです」とお答えしておりました。
自分の中にいる仏様を見つける、つまり「本当の自分」に気付くことが禅宗の教えなのです。このために我を捨て、無になることが必要となるのです。曹洞宗のご開祖道元禅師も

仏道を学ぶということは、自己を学ぶということである。自己を学ぶということは自己を忘れるということである。自己を忘れるということは、無我になることである。無我になると、体験の世界と一つになって、他と対立しない解脱の自己を会得することが出来る。
と言われています。

こういうお唱えをするとこういうご利益があるとか、極楽へ行けるという考えは、本来のお釈迦様の教えにはないのです。勿論、お経やお題目を唱えるこころはとても尊いものです。しかしそれ以上のなにものでもないのです。
それでは世の中には、よりどころとなるものや、報われる世界はないのでしょうか? そういうことはありません。報われる世界も、よりどころとなるものもあるのです。
報われる世界とは因果の法則が働くこの世の中そのものなのです。善い行いをしてください。八正道を実践して下さい。世の中のため、他人のために自分を忘れて尽くしてみてください。何物にも変えられないものが必ず得られます。そして人生本来の目的である自己成長も達成されます。
そして最もよりどころとなるものとは、自分自身なのです。いつも傍にいる、一番身近な自分がしっかりしていること、これ以上に頼りになるものはないのです。
法句経に以下の言葉があります。法句経の中でも、最も有名な句の一つです。

おのれこそ、おのれのよるべ
おのれによらずして、誰によるべぞ
よく整えたおのれこそ、誠に得がたいよるべである
(法句経 160)

「よるべ」とは頼りになるものという意味です。「よく整えた」とはよく整理されたという意味です。つまりお釈迦さまの説かれた仏教の真理を理解し、人生の目的である自己完成に向けて、ゆるぎない信念を持ち、八正道を実践していく自分なのです。
自分の人生、誰に頼るものでもありません。自分をしっかりと保てばそれ以上のものはなにもないし、必要もないのです。人生の生きかたについてお釈迦さまは、「法(ほう)灯明(とうみょう)・自灯明(じとうみょう)」ということを言われました。
法灯明とは、お釈迦様の説かれた法(真理)を灯火(ともしび=たより)としてという意味です。つまり四法印であり、八正道であり、因果律であるわけです。
そして自灯明は自分を灯明としてという意味です。つまり真理を理解し、実行していく自分のことです。
お釈迦さまの説かれた真理を学び、実践し、自分自身を高めていくこと、これが人生の経営なのです。
合  掌

 

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