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禅って何ですか?(かさぎ第5号【2017】より)

禅って一言でいうと

高松寺は臨済宗であり曹洞宗、黄檗宗とともに日本では三つある禅宗のうちの一つの宗派です。それでは皆さんに質問ですが、「禅」とは一言でいうとどういうことでしょうか?

この質問に対しては「禅とはこういうものです」という決まった答えはなく、どう答えるべきかという議論もありません。私も幸いにこの質問を檀家様や他の人から受けたこともなく、答えないままこれまできております。

ちなみに『広辞苑』で調べると『禅とは「梵語 dhyana(ディヤーナ)」の音写。心を安定統一させることによって宗教的叡智に達しようとする修行法』とあります。こう説明するとますますわけが解らなくなったと思いますが、梵語dhyana(インドのサンスクリット語)のdhyana(ディヤーナ)が禅に音訳されたということはわかります。つまりアメリカの主食は小麦なのにアメリカンを音写して米国、ドイツも音写で独国、フランスに至ってはキリスト教にも関わらず仏国、など音を漢字にあてて表現しただけで、漢字自体の意味はここでは全く関係ないということです。禅という漢字は禅譲というように「譲る」という意味があるそうで、本来のdhyanaとは全く関係ありません。


写真◆報恩座禅会ポスター(二〇一六年、臨済宗・黄檗宗連合各派会議所作成)

一九八八年に第九十八回芥川賞を受賞した『長男の出家』(三浦清宏著)を読んだことがありましたが、この小説の冒頭の部分で主人公の父親がアメリカで暮らしていたときアメリカ人から「日本の禅とは何か?」とストレートに聞かれ、わからなかったのでごまかして答えて、以後苦い思いを引きずっていたという話を今でも思い出すことがあります。それでは「禅とは一言でいうと何ですか」と聞かれたら、私ならどう答えるかというと「執着しないで、心が安らいでいること」と答えます。人間は自分や自分の愛するものへの執着から苦しんでいるから、その執着する心をなくして心を穏やかにすることが禅であると解釈しています。自分(つまり我)に執着する心をなくすことが「無我の境地」ということになります。

高松寺の先代住職・大愚義信和尚があるとき近隣の浄土真宗の住職に「禅ゆうて、一体何ですか?」と聞かれたので「無になることよ」と答えたと言っていましたが、この無になるとは自分に執着しない、つまり無我ということです。

二 お釈迦様の出家テーマ

仏教の開祖であるお釈迦様は紀元前五世紀(今から約二千四百年前)にネパールのシャーキャ族(釈迦族)のスッドーダナ国王の長男として生まれました。釈迦族は小さな部族でしたが、とても裕福な部族だったそうです。そしてお釈迦様も子供の頃から何不自由ない生活を送っていたのですが「、人間は何故、苦のなかで生きているのだろうか」という疑問を抱くようになります。仏教では「生・老・病・死(しょう・ろう・びょう・し)」と言いますが、生まれること、老いること、病になること、死ぬことは誰にでも起きる苦であり、生きることは基本的に苦であると捉えています。

お釈迦様はこの疑問を解決するために、二十九歳のとき城をとびだしてジャングルへ修行にでかけました。豊かな部族の王さまになれる身分を捨てて出家するのですから、相当な決意と覚悟だったと想像できます。私が会社を辞めて僧堂に入ったのとは全く重みが違います。

お釈迦様は何回もの生まれ変わりの中で修行を積んできていたようで才能も優れていました。当時ウッダカ仙人とアーラーラカーラーマ仙人という有名な仙人二人の下で修行しましたが、すぐにその境地をマスターしてしまいます。そして両仙人からも「ぜひ残って教団を継いでくれ」とたのまれますが、「何故人間は苦しみのなかで生きているのかという問題を解決出来ていないので修行を続けます」と言って修行を続けることになります。そして出家から六年後の三十五歳のときブッダガヤの地で悟りを啓かれ、すべての問題を解決しました。(詳しくは『かさぎ』四号をご参照ください)


お釈迦様の住んでいたカピラ城遺跡

当時インドでは書き記すという習慣がなかったので、お悟りの内容についてお釈迦様が直接書き記したものはありません。しかしそれまで合誦(ごうじゅ=記憶している人が話して承認されると皆で口々に伝えていくもの)で伝えられていたお釈迦様の言葉を、紀元前一世紀に書き記されたパーリ語経典を読むとその内容が見えてきます。


岩波文庫のスッタニパータ

三 私には執着するものがない

パーリ語経典の中でも最も古い時代に編纂されたとされるものに『スッタニパータ』という経典があります。この経典は漢訳仏典として日本に伝わってきておらず、明治以降に存在が知られるようになったもので、現在では中村元氏が訳されたものが岩波文庫より『ブッダのことば』として出版されており一一四九の偈で構成されています。

この中でマーガンディアという女性がお釈迦様に「あなたはどんな見解を説きますか?」とストレートに質問する場面があります。この話には前置きがあり、マーガンディアのお父さんがお釈迦様を凄く気に入って「ぜひうちの娘と一緒になってくれ」とお願いするところから始まります。マーガンディアは美人だったそうですが、お釈迦様は当然断ります。さらに進むとお釈迦様は「私にとっては( 女性は) 糞尿に満ちたものでしかなく、触れたくもない」と言います。そこで少し「カチン!」ときたマーガンディアがお釈迦様に見解を聞く場面へと移ります。

マーガンディア・・・「あなたはどんな見解を説きますか?」

お釈迦様・・・「私には“これを説く”というものがない。私はあらゆるものごとに執着があることに気づき、もろもろの見解にこだわりを観て、執着せず、またよく観察して内なる安らぎを見た」

マーガンディア・・・「それは愚かな教えです。思想家とは自分の見解を説くものです」

お釈迦様・・・「あなたはみずからが固執する見解に依拠して質問している。もろもろの執着のせいで迷妄に陥っているのである。

いまし固執を離れた人には結ぶ縛(いまし)めも迷いも存在しない。欲望や偏見に執着した人々は、互いに衝突しながら世の中をうろつく」

(『スッタニパータ』八三七~八四七からの抜粋)

お釈迦様に対して正面きって「愚か」という言葉をつかうなど、当時まだお釈迦様が絶対的ではなかったことや、逆にこの経典の信頼性も高まっているような気もします。

お釈迦様の出家した目的、つまり追求しようとしたテーマは「人間は何故苦しみのなかで生きているか」であり、「苦しみからの解放」でした。そしてこの会話のなかで最も注目すべき箇所は、「執着をせず、こころをよく観察して内なるやすらぎを見た」という部分です。心が安らいでいて苦しみから解放されていれば、それが正しい教えであろうが正しくなかろうが最高の教えであろうがそうでなかろうが、そんなことはどうでも良かったのです。つまり見解を聞かれても、「私はこれが正しいと思う」という回答はないのです。そこにはもう自分の見解に対するこだわりや執着が生じているからです。あえて答えれば「執着しないで心が安らいでいること」が私の説くことということになりますが、そう答えるとそこに執着していることになるのであえてここでは「これを説くというものはない」と答えたのでしょう。

「欲望や偏見に執着した人々は、互いに衝突しながら世の中をうろつく」とありますが、自分や自分の財産、プライド、主義主張に対する執着が強い人ほど心を乱して苦しんで生きていると答えているのです。

四 執着を捨てることが幸福の道

仏教の四つの真理(四法印)の一つに「一切皆苦」(いっさいかいく)というものがあります。つまりお釈迦様が出家される動機となった「何故苦しみながら生きているのか」ということです。

具体的には四苦八苦というものですが先ほどの「生・老・病・死」の根本的な四つの苦に加えて「愛別離苦(あいべつりく) 愛する人と別れること」、「怨憎会苦(おんぞうえく)憎い人と会うこと」、「求不得苦(ぐふとっく)欲しいものが得られないこと」、「五蘊盛苦(ごうんじょうく) 五蘊(我々の身体である色という物質的要素と心である受(外界刺激)・想(イメージ)・行(意思判断)・識(総合判断)という四つの精神作用の合計五つ)に対する執着から生じる苦」の四つの苦を加えて四苦八苦と言われています。

それでは仮に執着を一切捨て去ったら、四苦八苦はどうなるでしょうか?

・愛別離苦・・「愛する人や物への執着がなくなりますから、愛する人と別れたり失ったりする心配や苦しみから解放されます」

・怨憎会苦・・「執着がなくなると恨んだり憎んだりという心から解放されますから憎い人もいなくなり会うこともなくなります」

・求不得苦・・「物にも執着することがなくなるので欲しくてならないものもなくなり、物が得られないという苦しみは無くなります」

・五蘊盛苦・・「心身に対する執着が一切なくなりますから、諸行無常によりどんな変化が起こっても苦ではなくなります」「愛別離苦」でいえばこんな話が経典に記されています。

ある日お釈迦様がカピラ城を歩いていると、嘆き悲しみ号泣している老人がいました。お釈迦様は老人に何で泣いているのかと尋ねました。すると老人は「可愛い孫が死んだ」といいました。お釈迦様は「孫はそんなに可愛かったか?」とわざと尋ねます。すると老人はその孫が如何に可愛かったかと滔滔(とうとう)と話しました。

老人の話が終わるとお釈迦様は老人に「この地域でも毎日のように子供が死んでいる。それは悲しくないのか?」と尋ねます。老人は「それは悲しくない」と答えます。

するとお釈迦様は老人に「何故あなたは今嘆き悲しみ、苦しんでいるのか。いまあなたが私に語ったあなたの孫への愛着があなたを苦しめているのだよ」と言いました。すると老人はそこに気づき悲しまなくなり、預流果という悟りの境地に至ったそうです。

ちなみに仏教では「愛」という言葉は「愛着(執着)」と理解し、「溺愛」、「渇愛」というように良い意味には使われません。代わりに「慈悲」という言葉を使います。

一切の執着から離れることは、言うのは簡単ですが、実際には大変に難しく私も到底遠く及ぶものではありません。しかしお釈迦様のように完全に悟りを啓いて人格を完成させるとどうなるでしょうか。もうこれ以上修行する必要がなくなりますから、涅槃の地に行き人間界に生まれることはなくなります。

「わが心の解脱は不動である。これが最後の生である。もはや生まれ変わることはない」

( サンユッタ・ニカーヤ)

写真※仏教と経営について話している筆者(広島市内にて)

生まれることが亡くなるから、老いることもなくなり、病気になることもなくなり、死ぬこともなくなる。つまり四苦八苦のすべての苦から解放されるということになります。これがお釈迦様の全ての苦から逃れる方法ということになります。

私のような凡人からすると、人間に生まれないことは何となく寂しい気もするのですが・・・。

五 比較しない

私と他者を比較することも心が穏やかでなくなる原因です。なぜかというと私と他者を比較する場合、私は他者よりも優れていなければならない、他者よりも幸せでなければならない、正しくなければならない、財産は多くなければならないという前提で考えてしまうからです。

お釈迦様が出家するときに、王位継承やすべての財産を捨てたように、貧しいことや裕福であることはそれ自体善でも悪でもありません。しかし他者と比較すると「私のほうが裕福でなければならない」という前提で思うようになります。私が思うときも「私はこう思う、だから私は正しい」という前提になりますから、「それは違う」と言われるとすぐに心は穏やかではなくなります。つまりそこには自分に対する執着、自我があるからです。

「心が安らいでいるほうが、乱れていることと比較して優れている」、「自分に執着するよりも、執着しないほうが良い」、「あの人はああいうところが素晴らしいから見習いたい、目標としたい」など、比較することがすべて悪いわけではありません。しかし私に対する意識が強くなるほど、私と他者とが分離され、「私と私以外」という孤立感が固定し、全てが私以外になっていって心は益々乱れていきます。私に執着して比較することをなくすには、世界は皆繋がっているという意識をもつことが大切ですが、これを邪魔しているのが「言葉」の存在です。言葉により人間は文明を築いてきましたが、言葉は世の中全ての緊密な関係を断ち切る働きもあります。

例えば山という言葉は山と山以外を区別する認識になります。エベレスト山も海が盛り上がって今は山の状態になっているだけですが、山と言うと最初から山で存在し、永遠に山であり続ける存在であると思ってしまいます。車といえばいろんな部品やいろんな素材から出来ており、廃車後はいろんな状態になっていくのですが、言葉でいうと車だけで永遠に存在するものという認識になります。そして私と言えば必ず死を迎える存在であるのに、永遠に存在する私と勘違いして私と私以外に分けて、一番大切である私を中心として考えます。すべては密接に繋がっているのに、無意識のうちに自我意識という分離感が形成されているのです。

六 坐禅

このように我々は気付かないうちに自分に執着し、そのうえで比較して心を乱して苦しんでいるわけですが、それを緩やかにする方法として坐禅があります。坐禅を通して私への執着をほぐすことが出来ます。

坐禅をしていると雑念が次々と沸いてきますが、実際は雑念という念はありません。目の前に大きな川が流れているとイメージして下さい。川上からいろんなものが流れてきますが、川下まで追いかけてしまうと流れるものに心をとらわれることになります。放っておけばよいのに、流れるものを心で追いかけるから集中出来ていない状態になるのです。

流れてくるのは当たり前であり、集中出来てない状態ではないのです。流れるものにとらわれない、こだわらないことが大切なのです。これを繰り返していくと何も考えない、何も感じない状態なのではなく、むしろ、あらゆるものに敏感な状態になっていくのです。

自律神経は心臓、胃腸、内分泌腺、血管など我々の意識とは別に機能してくれています。しかしストレスがたまったりすると機能が乱れて、例えば食べてないのに胃液が出て胃潰瘍になったりします。自律神経のうち唯一自分でコントロールできるのが呼吸です。ゆっくりと呼吸することにより心身がリラックスし、私に対する執着が薄らいで大らかな感じになります。

写真:2001年ごろ、佛通寺僧堂にて

修行時代に老師が「自分はない、あるのは因果だけ。宇宙が迫ってくるような全てとの調和・一体感を味わえる」と言われていました。そのときは何も思いませんでしたが宇宙の調和とは、自分中心の主観的な意識ではなく、宇宙全体中心的な意識、つまり宇宙心理と自分が一体となるような意識だと思います。

もう一つ私に対する執着を薄める方法として、慈悲の実践があります。

日本テーラワーダ仏教協会発行の冊子に

『慈悲の実践釈迦牟尼仏陀の世界』があります。経典でお釈迦様が慈悲について語られているところを参考にして、心に確実に影響を与えることを狙って作られたそうです。私も朝お経を唱えた後、少しずつ読んでいます。フルバージョンは長いので、最初の一説「私は幸せでありますように」を紹介します。

私は幸せでありますように。

私のこころに現れる悩み、苦しみが徐々に消えていきますように。

怒り、嫉妬、憎しみの感情は人のこころを苦しめます。

苦しみである怒り、嫉妬、憎しみが、私のこころに起こりませんように。

怒り、嫉妬、憎しみの妄想を育てないように努めます。

私の思考が慈しみの思考になりますように。

私は「物事が常に変化して消え去るものである」と観察します。

私は過ぎ去った出来事に囚われないように精進します。

私は将来のことに執着して悩まない、不安にならない人間になります。

私は今ここでするべきことに集中します。

言葉はすべての繋がりの世界をバラバラにするといいましたが、言霊(ことだま)とも言って霊力が宿るともいわれています。慈悲の実践で私に対する執着を薄めていきたいものです。

また「ありがとうございます」、「感謝します」など短い言葉を繰り返しても良いでしょう。

江本勝『水は語る』(講談社+α文庫)という本がありますが、水にいろんな言葉をかけて凍らせて電子顕微鏡で結晶を撮影したものです。

「ありがとう」の言葉が一番美しい結晶になっています。逆に恨みとか憎しみの言葉をかけると、ドロドロの状態で結晶も出来ない状態となっています。

写真:ばかやろう(左)、ありがとう(右)と言葉をかけた氷の結晶

江本勝『水は語る』(講談社+α文庫)より

人間の六十%以上は水分です。慈悲の言葉や感謝の言葉を使って、身体のなかは美しい水分に保っておきたいものです。

 

写真:事務所内の坐禅スペース。僧堂を暫暇する際、故関照軒老師に頂いた「本来無一物」の書を掛けている。この半畳のスペースで坐禅をする。たまにですが。

七 日本での禅の表現

禅というものがわかり易い言葉で説明されていない理由の一つに、日本では「不立文字教外別伝(ふゆうもんじきょうげべつでん)=経典など文字で伝えるものではなく、心から心へとつたえる」とか、「直指人心 見性成仏(じきしにんしん けんしょうじょうぶつ)=心の奥底の本当の自分の心をみなさい、そして仏心・仏性になりきりなさい」という考えがあるからです。

臨済宗の修行では公案という問題を老師から出されて、答えるものがあります。私が最初に与えられた公案は「両手をたたいたら音がする。お前の片手の音を私に聞かせてくれ」でした。私は本で読んだことがあるので

「片手の音とは・・・」と答えていると、老師から『バカも~ん、理屈を言うな! 禅は理屈を一番嫌うんだ。お前が言っているのは水とは化学記号でいうとH20で、百度になると沸騰して・・・などという理屈だ。

私が聞きたいのは水でいうと百度になったら「熱い~!」、凍ると「冷た~い!」という本物のお前の片手の音なんだ!』と言われたのを今でもよく覚えています。だから日本

(中国もそうですが)では、禅は具体的で実践的な表現となっています。

それに比べてインドや欧米では、理論的に表現しようとします。このなかでもご紹介している『スッタニパータ』などの古い経典を見ればわかるように、日本のお経と違ってとても理路整然とされています。アメリカの大学で定期的に講義をしていた元東福寺派管長の故福島慶道老師も、放下著(ほうげじゃく)というお話のなかで「アメリカ人は非常に理屈好きだ。無といってもあるじゃないか、何で無いんだという。でもこれに答えていくのもまた面白い」と言っておられました。

アメリカへ禅を紹介した鈴木大拙師は禅を「超二元」と表現しました。生と死、愛と憎、苦と楽、暑いと寒い、損と得と、そんな両者の対立を超えたところという意味です。相対的な考えを断ち切り、それに執着する心を払いのけるということです。二者択一ではなく、対立する両者を空んじて捨ててしまうということです。

そうすることで両者を超越した高い次元の生と死、愛と憎、苦と楽を一つにした絶対的な心境が体得されるということです。両者の対立概念を断ち切り、自分を忘れ去るということになります。

理論的に説明すればこうなりますが、何となく理解はしたような気になっても「本当に分かったのか」と聞かれたら、「いいえ、心底理解は出来ていません」と答えるようになると思います。

それでは日本と同じように理論的に説明しない中国ではどう表現されているかみてみましょう。中国の禅僧でも最も表現力が豊かじょうしゅうだったといわれている趙州和尚のお話しを紹介します。

趙州和尚(七七八~八九七)は唐の時代の禅僧で、南泉普願(なんせんふがん)和尚の下で修業して悟りを啓かれますが、六十歳を超えてから諸国を行脚し、八十歳で趙州という場所の観音院(現在は柏林寺) の住職となり百二十歳まで生きたと言われています。百二十歳まで本当に生きたかどうかはともかくとして、非常に高齢だったことは間違いないようです。


趙州和尚木版画

 

ある時趙州の国王(今でいう県知事)が趙州和尚を訪ねてきました。そして国王が趙州和尚に問いかけます「大変なご高齢のようですが、歯は何本ありますか?」趙州和尚「歯は一本あります」国王は驚いて「一本の歯でどうやって噛むんですか?」と尋ねます。すると趙州和尚は「かつかつと噛むだけですわ」と答えます。

これだけの話ですが、これを聞いて「それでどうしたの?」と思われるかもしれません。しかし趙州和尚がこう答えるから非常に味わいのある答えになっているのです。私だったら「いや~、よう聞いてくれた。不便で、不便で、情けのうて。何で私が・・・」と不満をたらたらと言うかもしれません。

これに対して趙州和尚は一本歯の現実を百% 受け入れたうえで「一本の歯になったら一本の歯でかつかつ噛むしかありませんわ」と執着を一切捨て、歯のあるないを超えたところで、抜けきった表現をしているのです。江戸時代の禅僧である良寛和尚の「災難に会う時節には災難に会うがよろしく候。死ぬときには死ぬがよろしく候。これ災難を免れる妙法にて候」も同じ意味です。どんなことがあってもすべてを両極から超えた次元でとらえてすべてを受け入れるという意味です。このように日本や中国では禅について実践的、具体的な話で紹介して理論的ではないのですが、逆に味わいのある、感じ取れる表現であるともいえます。皆さんはどちらの表現がわかり易いでしょうか、腹に入りますでしょうか。

八 禅の生き方

最近はアップル社の元CEO故スティーブ・ジョブズ氏や日本航空名誉会長稲盛和夫氏、安倍首相が禅に取り組んでおり、禅は注目されています。

スティーブ・ジョブズはカリフォルニアの禅センターで曹洞宗僧侶の故知野弘文氏について毎日坐禅をしていたそうです。ジョブズは自伝のなかでも「じっと坐って観察すると、自分の心に落ち着きがないことがよくわかる。静めようとするともっと落ち着かなくなるのだけど、じっくりと時間をかければ落ち着かせると、とらえにくいものの声が聞けるようになる。

このとき、直感が花ひらく。ものごとがクリアに見え、現状が把握できるのだ。ゆったりした心で、いまこの瞬間が隅々まで知覚できるようになる。いままで見えなかったものがたくさん見えるようになる。日本の永平寺に行こうと考えたこともあるけど、こちらにとどまれと導師(知野氏)に言われてやめた」とあります。

スタンフォード大学卒業式での名演説のなかの「すべては繋がる」、「定説にこだわるな」、「ハングリーになれ。愚か者になれ」などは禅の影響を受けた言葉でもあります。

写真 ◆『日経ビジネス』二〇一三年

十二月一日号表紙の三氏

日本航空名誉会長の稲盛和夫氏は今さら説明する必要はありませんが、一九九七年に京都府八幡市の臨済宗円福寺僧堂で得度され、その後も各地で托鉢をされたそうです。数ある著書の中でも仏教や禅に基づいた考え方で書かれた箇所がたくさんあります。

安倍首相は東京台東区谷中にある臨済宗国泰寺派の山岡鉄舟ゆかりのお寺全生庵(ぜんしょうあん)に通っていたそうです。訪れたのは最初に総理になって福田元首相に首相の座を譲った半年後で、憔悴しきった様子だったそうです。

しかし五年弱の期間、毎月一度やってきて、一時間ほど坐って帰っていたそうです。全生庵の平井正修住職は「首相が坐禅を通して何を得たのか、それはご本人でないとわからない」としながらも、後半は坐禅の姿勢も良くなり、生気に溢れているようにみえたそうです。

(『日経ビジネス』二〇一三年十二月一日号より)

自信に溢れたいまのご活躍は皆さんご存知の通りです。

これまで禅についていろいろ述べてまいりましたが、私も含めてですが、ぜひ「禅の生き方」をしていただきたいと思います。

先ず禅では看脚下(かんきゃっか)と言いますが、脱いだ履物を揃えることから始めましょう。どんなときでも履物をきちんと揃える心のゆとりは欲しいものです。理想を高く掲げる前に先ず足元を疎かにしないようにしましょう。

執着や思い込みを捨てて、シンプルに生きましょう。捨てたらまた新たな豊かさが入ってきます。そして一日一度は呼吸をゆっくりとしてみましょう。心が落ち着いてきます。

呼吸の呼とは息を吐く、吸とは息を吸うということです。

何事も先ず捨てたり、与えたり、犠牲にしない限り、新しく入ってくるものはありません。因があって縁があるから、果があるのです。これが因縁、因果なのです。

そして今・自分が出来ることに専念しましょう。過去を悔やんでも戻れません、未来を不安に思っても、今があって未来があるのです。結局は今しかないのです。

自分だけをみていきましょう。「自分」が

「今」何をすべきかを常に考えて行動していきましょう。人生にこれといった目的はありませんが、それぞれに役割があります。母親であれば子供を育てる、学生であれば勉強する、クラブ活動をする、社会人であればそれぞれ社会に対しての役割があるはずです。

「他人の過ちや、したこと、しなかったことなど、観る必要はない。ただひたすら、自分が何をしたのか、何をしてないのかだけを想うべきだ」(『ダンマパダ』五十)

人のことを見て怒ったり、悩んだり、嫉妬したり、自慢したり、卑下する愚かなことはやめましょう。

そして最後に感謝の心で生きましょう。ご先祖様に感謝、親に感謝、子供に感謝、周りに感謝、社会に感謝、生きていることに感謝、ありがとう、ありがたいの心で生きてゆきましょう。

皆さまが心安らかに、生きていかれることを願いながら終わりにしたいと思います。

岡本大観 合掌

 

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