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高松寺について

住所:広島県福山市加茂町北山1604

電話:084-972-4633 連絡先:084-928-7841

現住職:岡本大観

お寺外観

承久2年(1220年)現在地に宗海覺樹という人によって、高松院(こうしょういん)として建立されました。当時は天台宗であったと言われています。

その後文安4年(1447年)臨済宗佛通寺派高松寺(こうしょうじ)となり、現在に至っています。
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笠木山高松寺は、福山市内で二番目に高い笠木山(約513メートル)の麓にあります。実在する山名が山号になっている寺は、近隣においても少なく、それゆえ、笠木山なくして高松寺を語ることは出来ません。

 

安産 鐘楼

高松寺の歴史

年号 事項
承久2年(1220)

宗海覺樹が笠木山高松院を建立する。天台宗と推定される。「水野記」によると寺領は120貫。

分暦元年(1234) 六地蔵菩薩を建立する。明西代
正元元年(1259)

地蔵菩薩像、薬師如来像を建立する。槍一本を宮氏が寄進する。明玄代。祈祷版木作成(明西作)

貞和元年(1345) 鐘楼門を建立する。「笠木山」の山門額を掲げる。宮氏寄進。明林代。
「水野記」によると、宮式部大輔が寺領として30貫と一町四反を寄進する。
応永4年(1397) 沼田荘地頭・小早川春平が愚中周及を招いて佛通寺を建立する。

応永14年(1407)頃

桂巌周昌(昌明丸)が生まれる。木之上城主(神辺町中条三谷)金尾遠江守信貞の三男と伝えられている。
応永21年(1414) 釈迦涅槃図作成(九淵作)。宗悟明正代。
嘉吉元年(1441) 千畝周竹{永和5年(1379)~長禄2年(1458)}が足利家祈願所として重玄寺(後月郡芳井町)を建立する。
文安4年(1447) 桂巌周昌が高松院の懇招により11世となる。高松院を高松寺と改める。臨済宗佛通寺派となり、再興開山となる。千現地蔵を本尊として、十六善神像を副本尊とする。金尾遠江守信貞の念持仏十一面観世音菩薩を脇仏とする。三宝荒神をまつる。
宝徳2年(1450) 3月2日、金尾遠江守信貞が没する。桂巌が金尾山龍華寺(神辺中条三谷)を建立する。
長禄2年(1458) 1月、千畝が桂巌に重玄寺を付与するという置文を与える。
長禄3年(1459) 籠を新調する(石州大工・仁作)。
応仁元年(1467) 桂巌が佛通寺17世友諒周益の元で向上を務める。
文明10年(1478) 桂巌が佛通寺25世となる。
文明13年(1481) 桂巌が勝福寺(芳井町井山)を建立する。
延徳元年(1489) 桂巌が龍徳寺(芳井町川相)を建立する。
2月20日、桂巌周昌が示寂する。82歳。
玄希祖要が高松寺2世となる。
延徳3年(1491) 玄希が開山桂巌和尚の大祥忌(3回忌)に達磨大師像を新調する。
大永7年(1527) 1月28日、玄希祖要が示寂する。72歳。
茂渓義昌が高松寺3世となる。
天文元年(1532) 高野氏に大般若経600巻の木札を出す。

元亀2年(1571)

6月6日、茂渓義昌が示寂する。81歳。
心巌宗誓(丹後生まれ)が高松寺4世となる。永禄元年(1558)に天寧寺(福知山市)にて書写した「大唐諸回向」を持参する。
天正3年(1575) 木版にて本堂再建立の寄付を依頼する。
天正4年(1576) 鐘楼門を修理して、本堂を再建立する。籠堂を建立する。
天正7年(1579) 北山村(福山市加茂町)の種(倉田屋)が幡、天蓋を寄進する。
元和元年(1615) 心巌の従弟が仏宝僧印を新調する。3月15~21日、笠木観音の開帳法要を行う。
元和9年(1623) 3月18日、心巌宗誓が示寂する。92歳。
喜叟文悦(京都生まれ)が高松寺5世となる。将知と号する。
寛永4年(1627) 5月10~18日、大見安田(世羅郡世羅町)の森宅(西屋)にて笠木観音の出開帳法要を行う。
寛永9年(1632) 燈籠を新調する。(大工・吉作)
寛永16年(1639) 福山藩あてに寺の現況を文書で提出する。
寛永20年(1643) 鐘楼門を解体修理する。
寛文2年(1662) 虫送りの儀式を中野・葦原(福山市加茂町)にて行う。
寛文4年(1664) 9月11日、喜叟文悦が示寂する。83歳。
寛文5年(1665) 秋外全菊(京都の住人)が高松寺6世となる。
寛文12年(1672) 虫送りの儀式を中野・葦原にて行う。
寛文13年(1673) 秋外の従弟・福巌が日光・月光菩薩像を新調する(京都四条・光雲作)。
延宝5年(1677) 5月10~18日、大見安田にて笠木観音の出開帳法要を行う。

延宝8年(1680)

不動明王護摩供養を行う。
延宝9年(1681) 虫送りの儀式を八軒屋(神辺町)にて行う。
元禄2年(1689) 開山桂巌和尚の200回忌を行う。
元禄5年(1692) 11月8日、秋外全菊が示寂する。64歳。虫送りの儀式をこの年から5年に一度とする。
元禄6年(1693) 禅悦祖関(京都の住人)が高松寺7世となる。
元禄8年(1695) 覚田の為に妙鉢を新調する(京都四条・陸奥掾作)。
宝永2年(1705) 12月24日、禅悦祖関が示寂する。54歳。
宝永3年(1706) 覚田宗哲(丹後の住人)が高松寺8世となる。
宝永5年(1708) 虫送りの儀式を中野にて行う。
正徳元年(1711) 岩室観音堂を建立する。元禄5年(1692)に念持仏として入手した十一面観世音菩薩像を本尊として、8月23日に入仏、同26日に大般若経慶讃供養をする。
正徳3年(1713) 虫送りの儀式を葦原にて行う。
享保12年(1727) 開山桂巌和尚の250回忌を行う。北山村龍田大明神を司る。
享保13年(1728) 重玄寺雪令和尚の指示により、観音宮殿を新調する(大阪御堂前・鳥居藤兵衛作)。
納屋、牛馬小屋、旦過寮などを新調する。
享保15年(1730) 7月5日、覚田宗哲が示寂する。67歳。
享保16年(1931) 実中師箭(丹後の住人)が高松寺9世となる。
元文2年(1737) 重玄寺の世代墓を作る。
元文4年(1739) 宇賀にて笠木観音の出開帳法要を行う。
寛延元年(1748) 10月1日、実中師箭が示寂する。53歳。
寛延2年(1749) 鏡堂玄亀(神辺町中条生まれ)が高松寺10世となる。
宝暦8年(1758) 8月4日、鏡堂玄亀が示寂する。50歳。
宝暦9年(1759) 芳岩林公(大阪生まれ)が高松寺11世となる。
宝暦13年(1763) 上領家(甲奴郡総領町)にて、笠木観音の出開帳法要を行う。
明和3年(1766) 本堂の須弥壇を彩色する(京都四条・松村恵澤画)。
明和8年(1771) 福山の帯屋が廣天恵澤の為に半鐘を寄進する。8月23日、岩室官能の供養をする。
安永元年(1772) 9月4日、芳岩林公が示寂する。43歳。
安永2年(1773) 廣天恵澤(大阪の住人)が高松寺12世となる。
安永4年(1775) 廣天が重玄寺の和尚を殺害する。
安永6年(1777) 4月23日、廣天恵澤が示寂する。32歳。廣天の為の宝篋印塔が建立される。
安永7年(1778) 芳州智薫(神辺町中条生まれ)が高松寺13世となる。
安永8年(1779) 枳築大明神を自作し、寺の東方の山頂に安置する。地神石を据える。8月23日、岩室観音堂を修理して供養する。
天明5年(1785) 虫送りの儀式をこの年から毎年するようになる。
天明8年(1788) 開山桂巌和尚の300回忌を行う。
文化2年(1805) 吉舎安田(双三郡吉舎町)の井上宅にて、笠木観音の出開帳法要を行う。
文政3年(1820) 5月21日、芳州智薫が示寂する。85歳。
文政4年(1821) 看山西亮(丹波生まれ)が高松寺14世となる。
文政5年(1822) 虫送りの儀式を東中条(神辺町)にて行う。
文政9年(1826) 看護宗寛が過去帳の収容箱を新調する。
天保9年(1836) 大般若経600巻を新調する。
天保10年(1839) 開山桂巌和尚350回忌を行う。岩室観音の供養を行う。
弘化元年(1844) 福泉寺、重玄寺、龍徳寺、法雲寺を兼務する。
弘化5年(1848) 重玄寺の檀徒より、寺の運営についての不備を佛通寺に訴えられる。
嘉永7年(1854) 河原田武一郎宗信が石門を寄進する。
安政元年(1854) 河原田武一郎宗信が石段を寄進する。
安政5年(1858) 虫送りの儀式を葦原にて行う。
安政6年(1859) 寿相(為恭画)の賛の依頼の為に、鎌倉円覚寺(東海昌晙和尚)へ行く。
慶応3年(1867) 虫送りの儀式を中野にて行う。
明治2年(1869) 12月2日、看山西亮が示寂する。72歳。
明治3年(1870) 寅山祖玄が高松寺15世となる。名字を笠木とする。
明治4年(1871) 明治2年(1869)頃より本堂を再建立する。
明治7年(1874) 塔所を境内に移す。
明治27年(1894) 水野天山義哲が高松寺16世となる。
明治29年(1896) 鐘楼門が倒壊する。
明治30年(1897) 水野天山義哲が退山する。看護壑州(筑前の人)が高松寺にはいる。剣道の指南をする。
明治32年(1899) 6月6日、鐘楼門を建立して、貞和の山門額を掲げる。8月23日、岩室観音の指南をする。

 

明治39年(1906) 2月6日、寅山祖玄が示寂する。大忠(双三郡吉舎町)の明賀宅にて、笠木観音の出開帳法要をする。
明治42年(1909) 門前の田を高丸フサ・高丸滝十が寄進する。
大正6年(1917) 12月24日、壑州玄孜が没する。
大正10年(1921) 岩室観音堂が高松寺より分離して、菅町集落の管理となる。
大正13年(1924) 泉聯山義芳(世羅郡世羅町生まれが高松寺17世となる。
大正14年(1925) 庫裏を新築する。
昭和8年(1933) 本堂前の石段を三島源一・三島近男が寄進する。本堂内外を整備する。
昭和17年(1942) 大鐘(元禄年間の作)・古鏡・鉄格子などを供出する。
昭和22年(1947) 門前の田を改良して、耕地を拡大する。
昭和35年(1960)

3月14日、泉聯山義芳が示寂する。61歳。同日、水野天山義哲も示寂する。91歳。泉大愚義信(福山市生まれ)が高松寺18世となる。一休宗純の如意を義芳和尚より引き継ぐ。

昭和36年(1961) 本堂屋根を修理する。
昭和38年(1963)

長屋を建て替える。楠田より当寺までの道路が拡張される。あわせて、参道を拡張する。

石門を山頂より参道に移転する。

9月29~30日、開山桂巌和尚500回忌と、笠木観音を開帳する。大法会を厳修し、稚児行列を行う。

昭和45年(1970) 石段を修理する。日本鋼管鉱石運搬船(笠木山丸」が進水する。山号より船名をとる。
昭和50年(1975)

高松寺分室を福山市加茂町下加茂に設置する。

昭和63年(1988) 本堂内外大修理(屋根の葺き替えなど)。昭和大修理と命名する。4月29日、落慶法要を行い、稚児行列をする。
平成8年(1996) 庫裏の屋根を石州瓦に葺き替える。本堂前の庭園を整備する。
平成9年(1997)

4月、「笠木山高松寺誌」を作成する。開創550年(慶讃大法会)を行う。

笠木子安安産ふれあい観音石仏を開眼する。

  (ここまで年表作成・泉 大愚)
平成14年(2002) 4月、岡本大観が副住職となる。
平成20年(2008) 10月、泉大愚義信(18世)が示寂する。
平成21年(2009) 4月、岡本大観が住職就任。
平成22年(2010) 4月18日、晋山式を行い、稚児行列をする。

 

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